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 第一章 藩政の推移
   第一節 所領構成の変化
    四 福井藩の預所
      預所の成立
 預所とは幕府領の管理を大名に委ねた土地である。越前における最初の預所は寛永十二年(一六三六)の大野郡木本領二万五〇〇〇石で、同年八月木本藩主松平直良が勝山藩主になったことで所領が収公され、同領のうち二万石が福井藩に預けられた。なお、同領は十四年三月に福井藩に加増されている。次いで正保元年(一六四四)三月、直良が大野に移封されたことで勝山領三万五〇〇〇石が幕府領となり、福井藩に預けられた。同三年の「正保郷帳」(松平文庫)に「三万五千石松平万千代(光通)御預ケ 御蔵入」とあるのがそれで、同地は「預所勝山領」とか「勝山御領分」といわれている。預所勝山領は、貞享三年(一六八六)福井藩主松平綱昌が改易になったのを機に直轄領になった(『通史編3』第二章第一節)。
 享保五年(一七二〇)、幕府は越前の幕府領一七万石のうち一〇万三八三四石余を福井藩の管理に委ねたことから預所が復活した。預所は、後述するように寛延二年(一七四九)から宝暦十三年(一七六三)の一時期中断したが、幕末にいたるまで増減を繰り返しながら継続している(表9)。

表9 福井藩預所の増減

表9 福井藩預所の増減

 ところで、幕府は享保四年の信濃飯山藩を最初として、翌五年に福井・松江・姫路・島原の四藩、同六年に高松・松山・掛川・田中の四藩、七年に加賀・会津両藩と、相次いで諸大名に近隣の幕府領を預け、その合計は三五万石に達した。それは将軍吉宗が代官支配体制の刷新をはかろうとしたことによるものである。
 福井藩の場合、勝手掛老中水野忠之が藩主松平吉邦に、「其許御領分御仕置等宜相聞ヘ候、随分被入御念諸事可被仰付候、左様候得者外之代官所ヘ其趣押移り宜候、且亦其許御仕置ニ而万事直り候得者、其許を手本ニ致し候得と何茂へも申付候」(「御預所被仰出節覚書」松平文庫)と述べているように預所の成立は同藩の治政が良好と評価されたことに起因していた。
 預けるに当たって水野が提示した条件を要約すると次の四つになる(「御預所増減之覚」松平文庫)。(1)幕法および幕府勘定所の指示に従って政務を執行すること、ただし従来の代官所の慣習は踏襲しないこと。(2)従来の代官所役人を採用せず、よくない村役人も交代させること。年貢の賦課・徴収に当たっては役人の村方派遣を極力避けること。(3)年貢徴収に当たっては百姓を納得させ、定免制を採用すること。(4)訴訟・裁許については特別の案件は勘定所の指示によるものとするが、大概のことは大名の判断にまかせること。
 以上のことから推して従来の幕府代官の政務は弛緩しており、役人の不正もあって年貢徴収の効率が悪かった。それに加えて代官所の経費もかかりすぎている。そこで、それを是正する一つの方法として幕府領の一部を大名預所とすることが行われたのであった。



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