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 第一章 藩政の推移
   第一節 所領構成の変化
     三 紀州領と飛領
      郡上藩領
 元禄五年に美濃郡上藩主遠藤常久が七歳で死去したため改易され、常陸笠間藩主であった井上正任が郡上に入った。この時の郡上藩の領知高は五万二〇〇〇石といわれ、郡上郡一三二か村二万六九〇七石余と、越前大野郡で若猪野村など六九か村一万五〇〇〇石のほか、越前国内の幕府領一万石を預かったとされる(『郡上郡誌』『岐阜県史』)。しかし、今のところ越前での所領は確定できず、預所が存在したかどうかも確認できない。
 その後、元禄十年に正任の子正岑は丹波亀山へ転封し、かわって金森頼外字が三万八九〇〇石で出羽上ノ山から入り、郡上郡で一二一か村二万三八一九石余、大野郡で七三か村一万四九四五石余を領した。頼外字の死後、跡を継いだ孫の頼錦は、窮迫した藩財政を再建するため貢租法を改め、従来の定免制を検見制に改正しようとした。これを契機に、宝暦四年(一七五四)に百姓一揆が勃発し(郡上騒動)、これにより同八年に金森家は改易され、かわって青山幸道が丹後宮津から四万八〇〇〇石で入封した。
 青山家は、郡上郡と越前大野郡の金森家の旧領を引き継いだほかに、越前南条郡の千福・妙法寺・中津原(小浜藩と相給)・上野・金粕の五か村三六三一石余と、丹生郡の石生谷・朝日(幸若領と相給)・上野・野・寺・蝉口・下大倉・吉田・田・二町掛・冬島・和田・余田(幕府領と割郷)の一三か村五六〇四石余を領した。青山家は以後、幸完・幸孝・幸寛・幸礼・幸哉・幸宜と続き幕末を迎える。
 井上家以来、郡上藩は大野郡の所領を支配するために、勝山町の南方に位置する若猪野村に陣屋を置き、常時代官を二人ずつ配置して年貢収納を初め民政一般を担当させた。領内をいくつかの組に分け、各組に有力百姓の中から任命した「与頭」(大庄屋)を置き、代官の命をうけて組内の年貢徴収や締方の一端を担わせた。組分けは、まず領内を山間と「平場」に分け、山間は穴馬二一か村と五箇六か村に分けられた。穴馬二一か村は、市布など九か村の上組と長野など一二か村の下組とに分けられていた。一方、平場は大庄屋の交替があるため一定しないが、元禄十一年には、上野組・若猪野組・麻生島組などがあったことが知られる(古世賀男家文書、嶋田次郎右衛門家文書など)。後期になると大庄屋に代わって、各組に有力百姓の中より二人から四人の「世話役」をつくり、領内支配の一層の合理化を図った(古世賀男家文書)。
 一方、宝暦八年以降郡上藩領となった丹生・南条郡の一八か村を管轄する陣屋は千福村に置かれ、代官二人が直接支配に当たった。



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