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 第一章 藩政の推移
   第一節 所領構成の変化
     三 紀州領と飛領
      野岡領
 野岡領は、大坂城代土岐頼殷が元禄五年に今立郡で九九か村二万五〇〇〇石を領したのに始まる。頼殷は延宝六年(一六七八)に父頼行の所領であった出羽村山郡上ノ山二万五〇〇〇石を襲封し、元禄三年幕府奏者番に任じられ、翌年には大坂城代に就任し摂津・河内の内に一九か村一万石を加増されて三万五〇〇〇石の領主となった。しかし上ノ山が大坂に遠いという理由で、元禄五年越前の内の二万五〇〇〇石と領知替えが行われ、さらに宝永五年に越前も大坂に遠いということで、越前の所領のうち一万五〇〇〇石が播磨国内の五六か村と替えられ、越前での所領は五四か村一万石となった(『寛政重修諸家譜』『徳川実紀』など)。その後、頼殷は正徳二年に大坂城代を解任されるとともに、すべての所領を駿河田中に移され、越前での所領はなくなった。
 土岐家は、所領のほぼ中央に位置する野岡村に陣屋を設置し、奉行や代官を置いて年貢収納や地方支配に当たった。また元禄九年には、所領を四組に分け、各組に「与頭」(大庄屋)を一人ずつ置いて、年貢徴収や地方の締方を担わせたことが知られる(「出入済口証文」大屋区有文書)。
 土岐家は元禄七年頃から領内で新田検地を実施した。これは単に隠田を摘発し村高の増加をねらっただけでなく、本村からの分離自立を願う水呑百姓の要求によるものでもあった。なお、この検地で高付けされた新田は、年貢免状には「改出無諸役」として載り、「天保郷帳」まで本高に加算されなかった。



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