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 第一章 藩政の推移
   第一節 所領構成の変化
     三 紀州領と飛領
      高森藩と葛野藩
 福井藩の半知によって増加し二七万石にもなった越前の幕府領には、越前に本拠を置かない郡上藩・西尾藩などの所領、短期間だけ存在した高森藩・葛野藩などが置かれた。ここでは、これらについて述べる。
 高森藩・葛野藩は、紀伊和歌山藩主徳川光貞の三男である頼職と四男の頼方(後の八代将軍吉宗)が越前に拝領した領知のことを指しており、当時は紀州領と呼ばれていた。
 頼職は元禄十年(一六九七)四月十一日に五代将軍徳川綱吉から越前丹生郡内に六三か村(割郷二か村)三万石を拝領し、頼方も同日に丹生郡内一三か村六五七九石九斗三升四合と坂井郡内三二か村(割郷一か村)二万三四二〇石六升六合あわせて三万石を拝領した。これにより、和歌山藩は、陣屋の設置場所や知行所の実状を把握するため、同年七月から八月にかけて、頼職領・頼方領を実地見分した。派遣されたのは、頼職から代官に任命された神谷与一右衛門と、同九年に家臣に登用された大畑才蔵であった。才蔵は、元は学文路村の庄屋であり、地方巧者として聞こえていた。彼等は、丹生郡笹谷村と北山村を拠点に、三三里一七丁(約一三二キロメートル)に及ぶ村々を巡見し、村高や反別、小物成など年貢に関することだけでなく、人情・風俗、農作業の仕方にいたるまで詳細に調べあげ報告している(大畑家文書)。この結果、頼職は丹生郡高森村に、頼方は同郡下糸生村の垣内である葛野にそれぞれ陣屋を置いたので、彼等の領知を高森藩・葛野藩と呼ぶ。両藩とも支配にかかわった家臣は一四人ずつであり、その内訳は宿老二人、代官一人、郡奉行二人、勘定役三人、地方手代七人、奉行組一人、出入同心九人、医師一人、勝手役二人であった(元禄十一年「庄屋手鑑」大畑家文書)。
 高森・葛野両藩は越前での支配に当たり、年貢納方を初め幕府領時代の支配体系をほとんど踏襲した。高森藩では、知行所六三か村を北山組・平井組・樫津組の三組に分け各組に組頭(大庄屋)をおいたが(『和歌山県史』近世史料三)、樫津組二九か村(八二六四石余)は幕府領時代と同じであり、組頭田中甚助に年貢収納や締方を担わせた(田中甚助家文書)。田中家は当時一〇〇石余を有する地主で、宝永元年(一七〇四)には藩の命により下河原村で一二、三町余の新田開発を請け負わされたが、資金面で行き詰まり事業は難航し、高森藩の廃藩によって結局失敗に終わっている(同前資5)。
写真4 頼職領越前丹生郡内村々見分書

写真4 頼職領越前丹生郡内村々見分書

 宝永二年五月、和歌山藩主徳川綱教が病死したため、弟の頼職が本藩を継ぎ高森藩は廃された。さらに、その四か月後の九月に頼職も死去したので、頼方が和歌山藩主を継ぐことになり、葛野藩も廃藩となった。同藩領三万石と高森藩領のうち一万石は幕府領となり、享保五年(一七二〇)に葛野陣屋が廃止されるまで同陣屋の管轄下に置かれた。一方、高森藩領の残り二万石は、宝永二年十月に本庄(松平)宗長に与えられた。本庄宗長の父資俊は将軍綱吉の母桂昌院の甥に当たり、この二万石新封は桂昌院の遺言によるものだという(『徳川実紀』)。宗長は頼職の高森陣屋をそのまま引き継ぎ、代官を派遣して統治したが、定府大名であるため一度も入部せず、在職四年で死去した。彼には子がなかったため、ただちに当時六歳であった資俊の六男宗胡を養子にたて遺領を相続させた。しかし、宗胡も正徳元年(一七一一)に死去し、本庄家は無嗣のため断絶となり高森藩は廃された。



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