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 第一章 藩政の推移
   第一節 所領構成の変化
     二 旗本領
      金森家の知行所支配
 金森左京家は白崎村に陣屋を置き、地方支配を行った。小さいながらも城郭風の陣屋であったらしく、その東側にかけて家臣団の屋敷が置かれていた(「白崎村絵図」白崎区有文書)。
 知行所の中心は白崎・清水・牧谷の三か村で、今立郡の四か村は東四か村として区別された。初期の様子は定かではないが、寛政十一年(一七九九)には清水村高木治左衛門を頭として、白崎村藤井五右衛門・牧谷村宮地儀兵衛等が領主財政の「賄方」という立場で、左京家の在府諸入用や在所諸経費調達のため、白崎・清水・牧谷三か村の年貢収納や先納・借入金の徴収を任されていた。なお東四か村については代官が収納し、江戸での諸入用にあてた。賄方の役割は、領主の財政を管理するだけでなく農民の年貢未進を肩代わりすることにあった。賄方には、農民層の分解により田畑を集積した百姓が選任されたようであり、宮地家を例にあげると、宝暦年間にはわずか一〇石程度の持高だったのが、寛政十年には五〇石以上になり、文化七年(一八一〇)には八六石の地主に成長している(宮地儀兵衛家文書)。
 文化四年に趣法替えが実施され、すべての知行所において免切や年貢取立の申付け以外はすべて賄方に一任されるようになった。賄方の負担は大きく、任務の遂行が困難なため、彼等はたびたび領主方と掛け合って賄役辞退を嘆願したが聞き入れられず、参勤交代など在府諸入用の出費がかさみ逼迫した旗本財政のもと、最後まで財政のやりくりに苦慮し続けた。



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