目次へ  前ページへ  次ページへ


 第一章 藩政の推移
   第一節 所領構成の変化
     二 旗本領
      金森領
写真3 金森家之碑

写真3 金森家之碑

 旗本金森家の祖は、金森長近の嫡子可重の五男重勝である。大坂の陣には父可重と共に供奉し、元和元年七月、兄重頼が可重の遺領(飛騨高山三万八〇〇〇石)を継ぐに当たり、三〇〇〇石を内分知され、代々金森左京と称した。
 金森左京家の所領は内分知であったため本藩の領知に含まれていたので、本藩の元禄五年出羽上ノ山、さらに同十年の美濃郡上八幡転封にともない移動した。元禄十年以降の金森左京領は、本藩同様に美濃・越前両国にわたっており、美濃郡上郡の五か村五〇六石余と越前大野郡の細野・別所・松田・御給・平沢地頭・平沢領家(本藩との相給)・森山の七か村二四九三石余であった。ただし、内分知であったので、「元禄郷帳」ではこの七か村は郡上藩領となっている。
 正式に旗本金森領として成立したのは、宝暦八年十二月である。この月、郡上騒動(金森騒動)の責任を問われて金森家郡上藩は改易されたが、幕府は左京家四代の可英に金森の名跡を継がせ、新たに越前南条・今立両郡に三〇〇〇石を与えて旗本とした。その所領は南条郡の白崎・清水・牧谷の三か村と、今立郡の上大坪・萱谷・大手・西尾(幕府領と割郷)の四か村であった。
 旗本の中でも三〇〇〇石以上、一万石未満の非役の者を交代寄合と呼ぶが、左京家はそのうちの交代寄合表御礼衆に属した。これは、幕府が元大名家の名跡保持を目的に設置した万石並の格式で、大名と同等に参勤交代を義務づけられていた。したがって左京家は隔年交代で江戸に出仕し、家臣は三田魚籃下にあった江戸屋敷と白崎村の陣屋とを交代で勤務した。

表7 金森左京家の家臣団

表7 金森左京家の家臣団

 家臣団とその構成は、安政三年の「家中分限規定」(金森穰家文書_資6)によれば表7のとおりである。五八人で編成され、なかでも金森本家に代々仕え、後に分家左京家の付人となった旧家臣が家老・年寄役となり家臣団の中心にいた。この史料には家中の家格・禄高・役料に関する規定が記されており、万延元年(一八六〇)の「家政方規定書」(同前)には諸士以上の勤向心得・手当・居屋敷地割などが詳細に記されている。ともに全国的にも珍しい旗本家法であり、とくに後者の史料からは家臣団の統制について詳しく知ることができる。



目次へ  前ページへ  次ページへ