旗本本多家の祖は、寛永元年に丸岡藩四万六三〇〇石の初代藩主となった本多成重の二男重看である。重看は幼少の頃、後の府中領主本多富正の養子となっていたが、富正に実子が生まれたため成重のもとに戻り、同三年成重の所領のうち、三〇〇〇石を分知され旗本に取り立てられた(『寛政重修諸家譜』)。分知された村は、吉田郡の領家と坂井郡の高柳・荒井・四ツ柳・寄永・種山崎・一本田(丸岡藩との相給)の七か村で、後に下野都賀郡のうちに二〇〇石を与えられ計三二〇〇石を領した。なお下野の所領は元禄十年(一六九七)に南条郡鋳物師村のうち二〇〇石と交換された。
本多家の場合、重看のほか成重の三男重良が元和三年(一六一七)下総相馬郡のうち三〇〇〇石(成重の旧所領)を与えられ、重良の四男重勝も寛文五年に父の所領から五〇〇石を分知され、それぞれ旗本に取り立てられている。このように大名や旗本の子息が旗本に取り立てられる例は、江戸前期においてかなり多くみられたようであり、大坂の陣後、幕府が軍事的拠点の警固や諸種の行政機構の拡大により旗本の増員が必要となり、それも幕府の財政の負担とならないように、本家である大名の領知の一部を与えるという形をとったからだといわれている。なお、前記旗本酒井家の分知は、幕府の意志によるものではなく、大名側に主導権が存在したことが指摘されている。
旗本本多家は江戸に常駐していたため、高柳村に代官所を置いて領内を統治した。代官所跡は現在畑地となっており当時の面影はないが、いまでも「殿様の墓」とよばれている江戸後期の代官蒔田雁門の墓石がある。代官は知行所の年貢収納など地方支配のいっさいを任されていたようであるが、嘉永二年以降、福井藩領坂井郡四十谷村の豪農安達利三郎などに領内の勝手向など支配万端を任すようになった。安達家は多くの田畑をもつほか、江戸後期には大安寺紙の生産を行ったり、廻船にも出資した福井藩の大庄屋である。 |