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 第一章 藩政の推移
   第一節 所領構成の変化
     二 旗本領
      酒井領
 天和二年(一六八二)二代小浜藩主酒井忠直の死にともない、幕府は、忠直がかねてから希望していた遺領分知をほぼ受け入れ、同年遺領一一万三五〇〇石のうち、一〇万三五〇〇石を嫡子忠隆に継がせ、残る一万石を忠稠(鞠山藩)に与え、さらに五男忠垠に新田三〇〇〇石を分知させた(『寛政重修諸家譜』)。この忠垠が越前に所領をもつ旗本酒井家の始祖である。酒井領は分知に際し、幕府から「敦賀郡において新墾田三千石」と指定されたが、敦賀郡内には三〇〇〇石を満たす新田はなく、当初は本藩から領知三〇〇〇石に見合う年貢米を得ていたが、貞享元年(一六八四)将軍綱吉の領知朱印状発給に際して酒井領の所付けも余儀なくされ、敦賀郡内の新保・葉原・越坂・谷口・井川・中・吉河・鳩原・古田刈・鋳物師・今浜(小浜藩との相給)の一一か村がその所領となった。なお、これにともない減少した本藩の高は、三方郡の新田一二〇〇石余りと、領内各村に「外高」「一ツ高」として割り付けられた一七〇〇石で補われた。
 酒井領では、年貢収納を初め地方支配は、宝暦七年(一七五七)まで本藩に預けられたが、以後は井川村に代官所を設け、直接支配するようになった。井川領と呼ばれるようになったのも、この時からである。



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