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 第一章 藩政の推移
   第一節 所領構成の変化
     二 旗本領
      小林家の知行所支配
写真2 天谷村

写真2 天谷村
 小林家は江戸本所に居住していたため、天谷村に陣屋を置いて知行所の支配に当たった。陣屋が設置された年は不明であるが、家人を代官として常駐させておらず、普段は大庄屋に知行所全体をとりまとめさせた。大庄屋には、知行所の頭分である天谷村の野村三郎兵衛・駒嘉右衛門と宿堂村の熊谷七郎右衛門の三家が代々交代で勤めた。彼等は知行所の村役人とともに、江戸地頭所役人からの布達類を直接請けて知行所農民に伝達したり、領内の訴訟の軽いものは吟味解決し、手に余る問題は上申したりして知行所締方の一端を担った。また、知行所の年貢徴収や、江戸への上納も行い、さらに御用金の調達にも当たった。その功績により苗字帯刀を許される場合もあった。もちろん知行所内のすべての問題を解決するに足る行政権・司法権は本来所持しておらず、絶えず江戸の小林家の決断を仰がなければならなかったが、大庄屋が沙汰を伺いに江戸へ頻繁に出張することが困難なことや財政的事情等により、時期によっては福井藩や幕府領本保陣屋に地方支配・年貢収納を委任することで知行所内の秩序を維持しようとした。
 文政十二年三月の「新開田畠出入ニ付済口証文」(野村志津雄家文書_資5)によると、大庄屋が古来から所持してきた新開田畠に関する争論一件について「福井御役所表御評定被成候」とあり、天谷村農民四〇人が福井藩役所の沙汰を求めていることがわかる。一方、福井藩への年貢収納委任についても、天保(一八三〇〜四四)期から嘉永期にみられ、同藩の為替によって地頭所に納められた。また安政二年(一八五五)には大庄屋が直納しているが、同三年には趣法替えが実施され、地方支配とともに幕府領の本保陣屋に一任され為替納となった(同前)。なお小林家は、大庄屋の引継ぎ後や知行所が極めて疲弊している時など特別な場合には役人を派遣して知行所を検分させている。

表5 文化2年(1805)の小林領の貢租

表5 文化2年(1805)の小林領の貢租

 知行所の貢租は表5に示したが、大別して物成と小物成とに分かれ、前者には取米・夫米・口米があってすべて米であるが、実際には年々の米銀相場をもって銀で徴収された。取米は知行所高から「小物成高入」分を差し引いた残高(実高)に免(年貢率)を乗じて賦課された。この小物成高入は一石につき一〇匁の割合で、小物成のなかの山手銀と炭役銀として徴収された。ただし炭役銀が課されていたのは下一光村だけである。このような賦課方法は越前においてはあまり例をみないが、高い山手銀の賦課率とともに、山村における徴租の形態の一つとして位置付けられよう。五か村の平均年貢率は二二・八パーセントで、とくに下一光村は六パーセントときわめて低く、そのうえ水損引高(永引高)が知行所高の約三割を占め、小物成高が取米を上回っている。福井藩の場合は一般に免三ツ(三割)といわれるが、この地域がいかに生産性の低い土地柄であったかを示すとともに、所領替えに及んだ幕府の制裁の厳しさの一端がうかがえる。
 



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