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 第一章 藩政の推移
   第一節 所領構成の変化
     二 旗本領
      荻原・小林領の特異性
 荻原家は五代将軍徳川綱吉の代に勘定奉行を勤めた荻原重秀を祖とする旗本である。重秀は初めは廩米一五〇俵の小身であったが、勘定奉行に昇進するまでに加増され、最終的には三七〇〇石の寄合旗本に列した。重秀は勘定吟味役のときに貨幣の改鋳を幕府に建議し、それを指揮した人物として著名であるが、その独断的な職務遂行の実態が死期の直前に露顕したため、その子乗秀のとき正徳四年、知行のうち三〇〇〇石を没収され、残り七〇〇石を越前坂井郡のうちに給された(『寛政重修諸家譜』)。知行所は坂井郡下関村一か村だけであり、しかも幕府領との割郷であった。明和四年(一七六七)秀興のときに知行分を廩米に改められ、下関村は幕府直轄領となったが、天明二年(一七八二)秀形が家督を継ぐにあたって再び元の知行所を宛行われた。その後、下関村は享和三年(一八〇三)には幕府領福井藩預所になり、文政七年(一八二四)に荻原領に復し、同九年再び同藩預所となり、嘉永五年(一八五二)荻原領になって幕末を迎えた。このように荻原家の知行形態は地方給と切米給の繰り返しであった。
 一方、小林家は、その祖権大夫正吉が慶長五年(一六〇〇)徳川家康に召されて関ケ原の戦いに供奉し、二代将軍秀忠の代同十四年に大番となり、廩米二〇〇俵を給されて以後、代々大番・広敷番頭など、幕府の番方(軍事担当)を務める家となった。正吉はその後一五〇俵を加えられ、寛永十九年にはさらに五〇石を加増され、すべての禄高を知行地に改められ、武蔵多摩・橘樹両郡のうちにおいて四〇〇石を領した。その子正綱は、寛永四年大番となるに際して四五〇石を拝領したが、寛文元年(一六六一)の家督相続にあたり、四五〇石のうち四〇〇石は収公され、父の所領四〇〇石を相続し、ここに関東における小林権大夫領四五〇石の知行所が成立した。
 正徳四年、正與のとき妹が殺害される事件が発生し、これをめぐって知行所農民との確執が生じた(『有章院殿御実紀』)。これにより同年八月、小林領のうち武蔵多摩郡内の小宮領にある百草村三〇〇石が越前に所領替えとなり、丹生郡天谷・宿堂・水谷・別所(幕府領と割郷)・下一光(同)の五か村三〇〇石を拝領し幕末まで存続した。百草村は「村内すべて山丘なれば高低最も多く、村境は或いは山の頂、又は山腹にかぎりて定かならず」(『新編武蔵風土記稿』)とあるが、越前の天谷村など五か村も山村であったことから、幕府は所領替えに際して、同等の地域を選んだことがうかがえる。
 本来、関東を中心とした地域に分散分郷の形態で所領をもつ数多くの旗本のなかにあって、荻原家や小林家のような旗本が越前という遠隔地に所領をもつ例はほとんどなく、特異な存在であった。先に述べたように、両家の所領替えの原因は、幕府の家臣団統制上の制裁的要素を含んだものであったと考えられる。
 



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