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 第一章 藩政の推移
   第一節 所領構成の変化
    一 鯖江藩の成立
      家臣の給禄
 次に、田代家を例に家臣の給禄状況をみてみよう。田代家は宝永三年に召し抱えられた家で、二代此面は享保十六年に父左大夫の家禄一八〇石の跡式一四〇石を相続し、寛政三年の隠居まで小姓・取次・物頭・持頭・旗奉行・用人等を歴任し、天明六年(一七八六)には一六〇石に加増されている。彼は享保十六年から病死する寛政八年まで六六年間の給禄を「御物成渡り覚」(田代清痴家文書)に記している。これによれば、家禄一四〇石の同家の実収は三五パーセントの物成で四九石であり、年三回にわけ支給された。享保二十年を例にとると、春渡一九石六斗、夏渡九石八斗、暮渡一九石六斗で、春暮が同額、夏はその半分であった。ただしこの年は上米率が四割であったので、それぞれ四割ずつ年間で米一九石六斗分が差し引かれた。残り二九石四斗については、春渡で米五石四斗と金三両二分銀九匁六厘、夏渡で米三石六斗と金一両二分銀八匁九厘、暮渡で米三石六斗と金四両一分銀一三匁三分七厘と三回に分けて支給された。
 この期間の上米率の変化を追ってみると、享保十六年暮から元文五年(一七四〇)までは四割、翌寛保元年(一七四一)から明和八年(一七七一)までは三割となる。この間寛延三年(一七五〇)から明和八年まで「上ケ米御用捨」として暮渡の際、その年の上米分の全額または半額が金銀で追加支給されている。ただ藩の財政が大きく好転したわけではないらしく、宝暦六年(一七五六)頃からはこの「上ケ米御用捨」の支給が翌年一月となったり、三月であった春渡が六、七月になったり、七、八月であった夏渡が十月まで遅れたりしている。給禄の支給は家臣にとって重大な関心事であったようで、史料には宝暦十三年暮渡について翌年「正月廿九日六ツ過渡」、明和三年夏渡について「十月廿三日昼四ツ半時過渡ル」などと、支給された月日だけでなく時刻まで記入されている。
 明和八年暮渡の分から上米率は四割に復し、安永三年(一七七四)まで続いた。翌四年からは一割五分に下がるが、同時に春渡・夏渡の遅れが恒常化していった。天明七年から三年間は飢饉の影響によるのか上米は四割に増加されている。このことは此面に衝撃を与えたようで「三石三斗六升壱割五分、五石六斗増之分弐割五分」とわざわざ上昇分を列記している。寛政二年から同八年春渡までは再度一割五分に低下している。



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