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 第一章 藩政の推移
   第一節 所領構成の変化
    一 鯖江藩の成立
      地方支配の体制
 鯖江藩領は図1のごとくかなり分散していたので、これらを円滑に支配するため、幕府領時代の正徳三年に村入用の増加や村方支配の不行届を理由に廃止されていた大庄屋制度を、享保七年一月から導入した。これに対し、藩主・江戸側は消極的であったが、国元では各村の庄屋が一、二年の年番では不都合なので、村方の取締りのため六人の大庄屋を任命してほしいと要請し、これが認められたものである。
写真1 「鯖江藩日記」享保12年1月3日の条

写真1 「鯖江藩日記」享保12年1月3日の条

 「鯖江藩日記」(間部家文書)によれば、享保十二年一月の記事の中に最初に任命された大庄屋名がみえる。今立郡の下新庄村平左衛門、大屋村宇兵衛、中戸口村弥左衛門、広瀬村六兵衛、丹生郡の甑谷村三右衛門、大野郡の木本領家村弥三右衛門の六人である。彼等には大庄屋給として米一二俵が与えられた。大庄屋の組名はその居村名を用いることになっていたので、それぞれ下新庄組(今立郡一五か村)、大屋組(同一六か村)、中戸口組あるいは戸口組(同三三か村)、広瀬組(同三七か村)、甑谷組(丹生郡一四か村)、木本領家組あるいは木本組(大野郡一一か村)と呼ばれた。以後、大庄屋が交替すると組名も変更され、管轄する村数にも増減があったが、今立郡に四人、丹生郡・大野郡にそれぞれ一人であることに変わりはなかった。
 なお陣屋に近い西鯖江・有定・東鯖江・定次の四か村は享保六年に陣屋付とされ、各村庄屋が大庄屋次席に遇されたが、同十四年から東鯖江村彦左衛門・西鯖江村弥次兵衛が代表とされた。「鯖江藩日記」では「陣屋付」あるいは「両鯖江」として大庄屋組と列記されている。
 間部氏入封後の徴租法は、初め検見取が行われた。享保十一年の例をみると、検見は大検見と小検見に分けられ、大検見に郡代、勘定・郡奉行、代官の三人が出張している。ただし、代官が大検見に同行するのはこの年だけの特例のようで、翌十二年・十三年には小検見にのみ出張している。小検見は、大野郡・丹生郡と今立郡下新庄組へ行くグループと残る今立郡の三組と両鯖江へ行くグループに分かれており、前者に給人と代官二人、後者に代官三人が任命されている。いずれも九、十月に行われて、大検見は一八日程度、小検見は二四日から二六日を要した。村方ではあらかじめ内検見(内見)をすませ、田の作柄別面積と畑の作付面積・作柄を書き上げた「差出帳」を作成して検見役人を待った。検見役人が鯖江に帰着した後、ただちに作柄や引高を勘案して取箇勘定がなされ、翌月半ば頃に村役人を鯖江まで呼び出し免状を下付したようである。この後取立役人を有定と三国湊の米蔵へ出張させ、有定蔵への納米や日野川を三国まで下す川下米の請払いに当たらせている。
図2 八石・西角間・西鯖江村の5年平均年貢率(1686〜1870年)

図2 八石・西角間・西鯖江村の5年平均年貢率(1686〜1870年)

 年貢率の決定は藩の財政に大きな影響を与えるのみならず、年貢を負担する農民たちにとっても最大の関心事であった。領内に残る免状や皆済目録から比較的連続して史料が残る今立郡の三か村を選び、ほぼ五年間の平均をグラフに示したのが図2である。西鯖江村(村高八八七石余)は、藩のお膝元である町方を含んでいるが、これについては享保十三年以降高が二〇石二斗三合に固定され、年貢率も一割五分の定率であった。図示したのは、町方を含む村高に対する年貢率であり、最高でも延享元年(一七四四)の二割七分三厘二毛と他村より低かった。このことは、同村の田地が日野川沿いの条件の悪い場所に多かったことによる。八石村(村高一〇〇石余)は月尾谷の奥に、西角間村(村高三二一石余)は池田郷にある谷間の村である。八石村の年貢率は幕府領時代の貞享三年の四割八分が最高、享保元年の二割八分が最低であり、天明元年からは定免制への移行が確認され、特例として引高が認められた年を除けば四割二分七厘に固定されていく。



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