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 第一章 藩政の推移
   第一節 所領構成の変化
    一 鯖江藩の成立
      家臣団と藩政組織
 鯖江藩の家臣団は、藩祖詮房が一五〇〇俵の禄をうけた宝永元年に九人の家臣を召し抱えたことに始まる。以後詮房が幕閣の中枢へ進むにつれ、家臣団は増加し、高崎五万石の城主となった同七年までに九八人が召し抱えられ、鯖江転封の享保五年には一二五人であった(「御家人名前」『鯖江市史』)。藩士の人事記録である「御家人帳」(間部家文書)によると、この後下級武士の取立てが加わり、寛政(一七八九〜一八〇一)期以降幕末まで、卒分を除き士分だけでも三一五人から三六〇人程度であった。「御家人帳」などによると、藩士の家禄の表し方は幕末期を除いて表2のような四種類がある。寛政七年における家禄形態別の士分の藩士の人数も表2に示した。

表2 鯖江藩士の家禄形態と人数

表2 鯖江藩士の家禄形態と人数

 士分は家老・番頭・用人・物頭・給人・無足・中小姓の七階の班次で構成されており、その下の徒格までは士分に準じて取り扱われた。しかし、これは固定されたものではなく、家督相続や勤向などによって小頭以下の卒分に降格されたり、逆に卒分から士分に取り立てられたりと流動的な状態が少なからずみられる。士分のうち用人以上の上士については昇進等の規定が定められ、優遇されるとともに重職を務めた。享保五年鯖江転封時には武治右衛門(家禄一〇〇〇石)、植田半蔵(同六〇〇石)、鈴木又右衛門(同五五〇石)、小堀勘十郎(同五〇〇石)の四人が家老職にあった。次いで番頭・用人があるが、このうち勝手用人は財政を担当し、毎年の年貢率(免)の決定や御用商人からの資金調達など歳入歳出計画をたてた。
 物頭は上士に準じ、番方の狭義の物頭と役方の役人からなり、後者の役職は町奉行から金奉行であった。これら物頭は藩政の各部署をにない上士への昇進も可能であった。例えば宝永六年、給人席八人扶持で召し抱えられた田中長兵衛は、同七年取次(家禄一二〇石)、正徳二年物頭、享保十年用人格(同二二〇石)、同十二年用人本席となり旗奉行兼帯、同十四年番頭格(同二七〇石)と昇格している(「御家人帳」)。以下給人から中小姓までが中士、徒目付以下徒格までが下士であったと考えられる。
 鯖江藩の役職は、家老を勤めた植田家に残る明治元年(一八六八)のものと思われる「分限帳」によれば、計一四二列記されているが、うち欠員の役職が五二であった。役職の兼帯(兼職)は多く、例えば、奥村銀馬(家禄八〇石)は文政二年(一八一九)取次となり、翌三年吟味役・普請奉行兼帯、同四年からは郡奉行を本役とし寺社奉行・町奉行・勘定奉行兼帯となり、同八年には町奉行が本役となったが、残りの三奉行職は相変わらず兼帯のままであった。同十一年には勝手用人手伝に進み、兼帯は勘定奉行だけとなり、さらに翌年「本役之方御用多ニ付」勘定奉行の兼務を解かれている。足立安五郎(家禄六五石)も文政六年から天保三年(一八三二)まで、本役は三度替わるが、郡・寺社・町・勘定の四奉行を兼帯している。また、伊丹忠蔵(家禄六〇石)は寛政九年側目付・御用取次兼帯、他に「御鈴掛リ」を命じられ、同十一年に大納戸役、享和三年(一八〇三)小姓頭兼帯、御宝蔵掛も命じられている。文化四年(一八〇七)には勝手用人手伝へ進み、大納戸役のみをはずされただけで、「兼帯役・掛リ役只今迄之通」で、同十四年在職のまま病死している。軍政の中核たる番頭や旗奉行は用人の兼務がほぼ慣例化しており、鯖江藩の立藩事情を反映した行政職優先の特色がみられるといえよう。
 藩士の家督相続については、親と同等の班次に格付されることはなく、相続時は下位におかれている。享保十二年藩主詮方の後見人詮貞の命で用人より物頭・役人までの跡は給人、平給人の跡は無足人、無足人の跡は中小姓、中小姓の跡は中小姓格と位置付けることが決められている。ただし上士やすでに親子勤めで子が役職にある場合は別であった。
 例えば、鯖江転封時の家老四家のうち武治右衛門の子一学は、正徳二年に新知三〇〇石をもらい若殿様付中老職となり、享保六年には父が隠居を願い出たこともあって家老職となり、同十一年まで親子で勤めている。また、植田半蔵の養子左仲は正徳二年に用人席一〇人扶持で召し抱えられ、享保六年には用人役となっており、鈴木又右衛門の子蔵人は宝永五年に一〇人扶持で召し抱えられ、享保六年には番頭になっている。二人とも相続時には用人・番頭の要職にあり、蔵人(又右衛門襲名)は相続の翌年家老に就任している。家老以外でも親子勤めは多くみられ、ともに要職を務めることもあった。また家禄については世減制をとっていた(『通史編3』第二章第三節)。



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