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 第一章 藩政の推移
   第一節 所領構成の変化
    一 鯖江藩の成立
      間部氏の入封
 越後村上藩主間部詮房の死によって、享保五年(一七二〇)九月十一日に家督を相続した弟の詮言は、同時に鯖江への転封を命じられ、ここに新しく鯖江藩が成立することになる。翌年三月、西鯖江陣屋の幕府代官窪嶋作右衛門長敷より今立郡三三か村と大野郡一一か村、葛野陣屋の小泉市大夫義真より今立郡七四か村と丹生郡一四か村の帳面が引き渡された。その郡ごとの内訳は表1のとおりである。なお図1に表されるように、藩領は現在の鯖江市を初め、武生市・今立町・池田町・今庄町・朝日町・清水町・大野市・勝山市に散在しており、鯖江市の行政区域とは大きく異なっていた。陣屋が置かれた西鯖江の地名から西鯖江藩といわれることもあるが、鯖江藩と呼ぶのが通例であるので、本書では鯖江藩と称する。
図1 鯖江藩領

図1 鯖江藩領


表1 鯖江藩の領知

表1 鯖江藩の領知

 間部家は、新井白石とともに六代将軍徳川家宣・七代家継に仕えた側用人間部詮房を祖とする。詮房は寛文六年(一六六六)に武蔵忍で生まれた。父は、甲府藩主であった徳川綱重(将軍家宣の父)に小十人組格として召し出された清貞である。詮房の少年時代のことはよくわかっていないが、能楽師喜多六大夫の弟子であったともいわれている(『間部家文書』)。
 貞享元年(一六八四)一九歳の時、弟の詮貞とともに徳川綱豊(将軍家宣)の江戸桜田屋敷に小姓として出仕し、以後のめざましい出世の糸口をつかんだ。宝永元年(一七〇四)綱豊が将軍後継者となった後、翌二年に西丸側役となり相模国三郡に三〇〇〇石の知行を与えられた。同三年には若年寄格から老中次席格となり、禄高一万石を与えられ大名に取り立てられた。同六年綱豊が将軍家宣となるや将軍側近として老中格となり禄高三万石、翌七年には上野高崎五万石の城主へと破格の出世を遂げる。
 高崎は中山道の宿場町で江戸に近く、慶長三年(一五九八)入封の井伊直政以来、幕府の要職を務めるいわゆる名門の大名の城地であった。元禄八年(一六九五)から将軍綱吉の側用人松平(大河内)輝貞が居城していたが、綱吉の死後輝貞が越後村上へ追われ、その跡に詮房が封じられたのである。高崎入封は詮房が無城の大名から城主に昇格したことを意味し、老中格の居城にふさわしいと考えられたのであろう。しかしながら詮房の役職は側用人が本役であり、その他はすべて格付である。これは老中と同格という意味で、のち大きな権勢をふるっても正式な老中職を務めたわけではない。なお、詮房の弟詮之・詮衡も元禄期に相次いで小姓として召し出され、兄の昇進につれ次々と加増されていった。詮房とともに出仕した弟詮貞は、病弱なため四五〇俵にとどまったが、正徳五年(一七一五)詮之は二一五〇石、詮衡は一五五〇石をもって、旗本に列せられ、それぞれ本所間部家、赤坂間部家と称された。
 詮房は元禄期の柳沢吉保で知られる側用人政治の時流にのって幕閣に登場した。家宣は伯父家綱・綱吉のあと将軍職を継いだ時、すでに四七歳であった。家宣独自の政策を行うため、強力な側近として起用されたのが詮房と新井白石であり、いわゆる「正徳の治」を推進していった。家宣の詮房に対する信頼はきわめて大きく、下問は何事もまず詮房を通して仰せ下され、老中の上申も詮房を経て行われていたという。三歳二か月の家継が将軍をついだ直後は、詮房の権勢は老中をも凌ぎ、絶頂期を迎える。
 しかし、異例の出世を遂げた新参者への反発をもつ譜代勢力の巻き返しが始まり、詮房の地位にも徐々にかげりがみえるようになる。幕府にとって前例のない幼将軍家継は、就任から三年半後六歳九か月で死去し、詮房の政治生命も失われた。享保元年紀伊徳川家から入った新将軍吉宗によって詮房は完全に幕閣から追放され、翌二年高崎から越後最北端の村上へ転封させられた。村上は、町並を見おろす標高一三五メートルの臥牛山頂に城があり、城主の家格は保持されたもののあらゆる意味で悪条件の地に移されたといえよう。同五年詮房はこの地で生涯を閉じ、浄念寺(現村上市寺町)に葬られた。
 間部氏の高崎から村上、さらに鯖江への二度にわたる転封は明らかに左遷であった。とくに鯖江は無城であり、これまで大名の居所であったことがなく、家格の降格をも意味していた。当時の西鯖江村は幕府の代官陣屋が置かれていただけの北陸道沿いの寒村であった。享保六年四月には村上の引渡しが予定されていたので、町方整備は鯖江藩の緊急課題であったが、このことについては第三章第一節で述べる。



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