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序章
 本巻は『福井県史』近世編の第二冊目である。対象とする時期はおおむね江戸時代の中期以降、福井藩でいえば貞享三年(一六八六)の半知からあと、多くの場合元禄(一六八八〜一七〇三)期ないし享保(一七一六〜三五)期以降となるが、いずれも慶応三年(一八六七)を下限とする。福井藩がやや早いのは、この半知を藩政上の画期とみて第一冊目での区切りを貞享三年としているからである。
 第一冊目では、幕藩制社会とか幕藩制国家といわれるものができあがってゆく過程、あるいはその社会体制や政治機構、そこに生まれた学問や芸術、そういったものを中心に叙述することに努めた。この巻では、そのようにしてできあがった江戸時代の社会が綻び、崩れていく過程、それを立て直すために払われる努力、そのようななかから現れる新しい産業や文化がどのような影響を与えたか、それはいかなる人々によって担われたものなのか、といったことなどに注意しながら叙述したいと思う。
 本巻が対象とする時期の特徴のひとつは、第一冊目でも触れた越前の「封地爪分」という状況が出揃ったということにある。試みに元禄十年でみれば、若狭の一大名に対して、越前には一一大名の所領があったことになる。さらに享保五年間部氏鯖江藩が成立し、翌六年松岡藩は廃されるが、明和元年(一七六四)には三河西尾領も置かれた。このほかにも旗本領と幕府領があったから、越前の諸藩領は極めて複雑に錯綜していたのである。
 またどの藩でもいえることであるが、本巻が対象とする時期から史料が格段に多く残りだすようになる。同時に藩や地域によって、残り方に顕著な違いが生じてくる時期でもある。例えば藩政史料は、福井藩のほか大野藩、鯖江藩、小浜藩に、それぞれ特徴を持ちつつよく残っているが、勝山藩や丸岡藩にはほとんど伝わらない。あるいは城下町の「御用留」は、大野藩と勝山藩に多く残るのみで、そのほかの藩ではあまり見ることができず、農村では大庄屋・庄屋とも鯖江藩が群を抜いている。
 このような事情にあるから、各藩を同じような比重で記述することはもとより困難であり、時期区分を同じくすることも不可能であった。そのため全体にわたって藩によって時期が前後し、藩領ごとの叙述の量に差が生じたのもやむをえないことであろう。
 次に章立ての趣旨を簡単に述べておこう。政治の面では、まず福井藩の半知以後所領構成がさまざまに変化しながらも、やがてほぼ固定してゆく過程と、文政(一八一八〜二九)期頃までの諸藩政の動きを扱った。それぞれの動きや特徴をできるだけ出すように努めたので、画一的な時期区分はせず、藩によっては幕末に及んでいるものもある。幕末の記述は大体天保(一八三〇〜四四)期から始めることにした。ここでは福井藩が、松平慶永の幕政参加などにみられるように、この時期から維新期にかけて果たした役割が大きかったこと、あるいは大野藩で洋学を積極的に導入したほか、大野屋の設置や大野丸の建造など独自の活動がみられることなどから、福井藩と大野藩に紙数の多くを割いている。もとより他藩の動きを軽視したわけでは決してない。
 次に農村と漁村については、十七世紀に成立した近世農村が、十八世紀以降いかなる事情によってどのような変貌を遂げるか、という観点からの叙述を試みた。農業生産の発展や貨幣経済などによる農村や農業経営の変化、地主小作関係、農業技術の改良や農書の普及などについて述べている。また漁村に関しては、漁獲物の市場が拡大して漁業技術が発展したこと、自らの努力によって枝村が独立していったことなどを明らかにした。
 寛文(一六六一〜七二)期に西廻り海運が整備されて、日本海海運は一層盛んになった。第一冊目の初期豪商のあとを受けて、新しい担い手の登場について触れ、都市の変化や商品生産の進展を具体的に述べた。必ずしも時期にとらわれず、鉱山のように近世初期にさかのぼって叙述した項目もある。
 江戸時代繰り返し襲ってきた災害と飢饉も初期から記述した。地震や日照り等は天災といえようが、天災が容易に飢饉に繋がるという意味で飢饉は人災である。また江戸中期以降は農民の闘いが高揚する時期である。藩の政策や農村の変化を踏まえながら村方騒動や代表的な一揆を概観することによって、それらが歴史を動かして行く様を描こうとした。なお村方騒動などの件数は、今後の史料発掘の進展によって疑いなく増加するであろう。
 江戸時代中期はまた独特の地方文化が展開する時期でもあった。若越では藩校や学問については早くから研究されていたが、庶民の文化や女性の生活などはほとんど明らかでなかった。本巻ではこれらに多くの紙数を割いているが、私塾や寺子屋、庶民の遊芸や娯楽、女性のことなどに新しい知見を提供することができたように思う。先に福井県立博物館による精力的な調査によって、いわば「忘れられた絵師」ともいえる夢楽洞万司が発掘されて話題となったが、本巻には早速その成果を反映させることができた。
 ペリーの来航後国内は騒然となる。異国船の警衛や京都の警固に大名が動員されることが多くなった。本文でも引用するように、小浜の一町人が「諸国のさうどう只日本のおとろへ天下替り目か」と書き残したのが安政五年(一八五九)、箱館にいた大野藩士内山隆佐が、国元へ「最早恐れながら日本も迚も無事ニ而ハ治り申す間敷」くと書き送ったのも翌六年であった。その後水戸浪士の通行、長州出兵など騒然たるうちに明治維新を迎える。明治元年(一八六八)北陸道鎮撫使が北上してくるが、それらは『通史編』5で詳しく述べられている。
 なおここで、大野藩の蝦夷地「開拓」に関して触れておきたい。内山隆佐は、ヤマコシナイに着いたとき、日記に「是迄を人間地と云、此山越内よりを夷地と唱ふる也」と記しているが、佐々木潤之介も指摘しておられるように、隆佐の議論にはアイヌに対する配慮は全くみられない(「内山文書から」『福井県史しおり』資料編7)。しかしこのことは独り隆佐のみに限らないのである。
 ここに現在に至るまで大きな影響を与え続けている、大正(一九一二〜二五)期の書物が二つある。一つは高島正『福井県人樺太経営史』(大正元年)であり、もう一つは牧野信之助「幕末諸藩の富強策について―特に越前大野藩の場合―」(大正十三年、のち『武家時代社会の研究』所収)である。前者には例えば次のような一節がある(一部漢字を平仮名に直した)。露国は化外の地の優先権を事実にすべく益々活動南下し始めた、幕府も北門の鎖鑰を全然開放するの愚を為すには到らなかった、翌安政二年四月、旗下陪臣浪人等に蝦夷地在住許可手当金下付の旨を令した。志士奮然決起の時は来た、大野藩上下の活動飛躍は之から始らうとする。大野藩の樺太開拓は確かに国家的事業として成功した。……誰か云ふ事業大ならずと、若し大野藩の此屯田なかりしと仮定せよ、一士の駐屯を見なかったであらう。……予は断言す、樺太を保全したは大野藩の功であると、千島を得たのも大野藩樺太保全の績であると、一ケの小藩で此二大事業の大原因を成した大野藩の勲業は、全国唯一であると誇るに足ると信ずる。豈大々的国家事業無比儔大成功にあらずや。一方後者にも次のような記述がみられる。我等は今斯る諸藩の中にあって極めて小さな或る藩が、少し語勢を強めて云へば、驚天動地惰夫を起たしむると云ふ風な富強策を巧みに成し遂げて、そこに活躍した藩主、及び之に随従した風雲児が共に最もよく時代精神を象徴して居る一の場合を知ってゐる。以下順序を追ふてその論策と事業の大体を叙述して当年の意気を伝へようと思ふ。その一小藩は土井侯の治封した越前大野藩それである。注意していただきたいのは、ここでお二人の先学を非難しようとしているのではないことである。高島正は厖大かつ良質の史料を「高島文庫」として残した誠実な郷土史家であり、この書物も史実については今なお生命を保ち、本巻でも大いに利用させていただいた。牧野信之助もまた、地方史の白眉(小葉田淳「監修のことば」資料編3)とも称され我々が目標ともした前『福井県史』の著者で知られる碩学である。このような考えは隆佐やお二人に限られたものではなく、かつては多くの人に共通したものでもあった。
 しかしこのような見方は、いわゆる「北門鎖鑰」史観、「北進日本」史観(菊池勇夫「海防と北方問題」岩波講座『日本通史』14)であって、新しい『福井県史』がそれを踏襲してよいということにはなるまい。大野藩による蝦夷地「開拓」は、今や「雄飛」「雄図」「壮途」「快挙」とのみ評されてはならないのである。
 さて『福井県史』の編さんが始まってから一八年を閲し、いまその業を終わろうとしている。その間中世史部会とともに県内を中心に各地の史料調査を行い、資料編七巻を刊行してきた。またこの十数年の間に近世史の研究状況も大きく変わってきた。いままで余り興味がもたれなかったことが研究され始めたため、研究の幅が広がり、その結果江戸時代の理解が深まることも多くなったといえるであろう。ただそのような新しい研究状況の全てについて、この近世編が十分に吸収したうえで執筆しえたとはいいえないようにも思われる。それらについては率直に反省せねばならないが、なお今後の課題にしたいと思う。



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