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監修のことば
 『福井県史 通史編』の近世は通史編3・4の二巻で構成される。4の本巻は近世二で、ほぼ享保(一七一六〜三六)期以後、幕末までを扱う。本巻において、政治・社会・経済・文化等の各部について、近世の中期より後末期にかけて、顕著な動向や展開を見る諸項に中心を置いて叙述されるが、その理解のためにはもとより前代に溯りその推移の跡を考述する必要がある。さて本巻所載の諸部より、やや特色あると思われる事項のうち若干を試みに取りあげてみよう。
 藩政の部では、近世中期に越前にて新しく藩を成した鯖江藩についてみよう。享保五年間部詮言は兄の詮房の養嗣となって家督を相続し、越後村上より鯖江へ転封して、丹生・大野・今立三郡で一三〇か村(割郷二)五万石を領知した。御陣屋を旧代官所趾に定め、村替等によって領知を整備するが、また家臣団の階層・役職・給禄等の構成や地方支配の体制、例えば村役人・徴租の組織や仕法等の他の越前諸藩との比較など注意される。三代詮方は享保十四年初めて鯖江に入部するが、詮万代より財政窮乏が進行し、八代詮勝代には窮乏は深刻となる。初代詮房は六代将軍家宣の眷遇篤く累進して新規の大名となるが、八代将軍吉宗の世となり境涯変じて上野高崎より村上に転封となった。さて詮勝は寺社奉行・大坂城代・京都所司代を勤め天保十一年(一八四〇)西丸老中に任じたのは破格の昇進といえる。他方に財政の窮迫ははなはだしく半知や調達金・御用金の実施、産物会所設立と専売制の導入、また大坂等の富商よりの借財等の救済策がとられている。近世中期頃より財政窮乏の進行は、県下いずれの藩においても大同小異であるが、その内容・程度・救済策またその成否の度など注目される問題であろう。
 土地制度や農業と農家の余業など、県全域にわたり通論として論述しがたいので、個々の散在諸家史料によって解説する。それは個別的となるが、これらより全般の傾向を想察せんとする。例として坂井平野の地主制考究のため、野中村(三国町)小島五左衛門家の史料を取りあげる。同家には享保三年以来の外字帳が多く存する。天保頃までは田作は手作経営が中心で、その後は外字が主となるが、外字米の決め方も時とともに変遷した。外字米には作徳・貢租・村費が含まれるが、貢租・村費は小作人より直接に納入することになった。
 漁業は若狭次いで越前も中世より近世初期にかけて先進的地位にあった。十七世紀末より近世後末期にかけても漁業の技術発展や拡大などがみられた。若狭では新式の大網がかなり広く導入され、越前丹生郡の滴々にも新型の大網が普及し、また若越一帯に手繰網なども行われた。中期頃より若狭の釣漁師は山陰の漁場へ、また後末期には丹生郡海浦の海士らは山陰や能登へ出漁している。しかし中世以来の若越の漁業の顕著な先進性は、近世中期頃にはその地位の低下は免れなかった。それは、日本海諸地の漁業の発達があり、大坂をはじめ上方地方をも含め、仝国的市場形成の進展をみたからであろう。かくて漁村にも新しい動きがあり、その変貌がみられるのである。漁村の大きな漁船は商販にも利用されたが、十九世紀に入る頃には漁村でも漁船と商船の専業化が進んだ。そして浦方でも魚商や廻船業を営むものが、しだいに大きな比重を占めるようになった。立石浦は近世前期には沖漁船も減少し漁業一辺倒から、漁業にも励むが畑や新田を開拓して半農半漁の生活の途を求めた。渦桐の栽培は若狭の沿岸部の浦々を中心に近世前期には増加して、桐油は全図的に若狭の特産となったのである。
 県内特産物の一に府中の打刃物がある。鎌などの鍛冶職の鞴株仲間が近世中期以後に結成され、幕末にかけて株数も鍛冶職の軒数も増加した。府中の鎌が全国的に弘まったのは、行商人の力によること大であった。今立郡の服間村等の漆掻職人は、中部・関東から東北地方まで出かけたが、彼等のうちには鎌行商人に転職するものが多かった。そして越前鎌はその産額が全国的にも首位を占めたであろう。
 西廻航路が開け、日本海海運業が発展して、商品流通も拡大した。廻運業者を代表するものとして、南条郡河野浦の右近権左衛門家の業態をみよう。近世中期には近江商人の荷所船として活躍し、やがて蝦夷地より買積した鰊などの海産物を敦賀・大坂で販売して、幕末には大きく飛躍する。廻船も大型化してその数も増して、天保期には二艘の廻船で収益も一〇〇〇両を超すことはほとんどなかったが、文久二年(一八六二)には廻船一〇艘以上を持ち収益も万両の台に達したという。
 新しい学問、学術の興隆において、頗る目覚ましいものがある。
 心学の流伝であるが、小浜の森川小野八(一甫)は、文化八年(一八一一)心学修行に京都へ赴き、同十一、十二年には府中・福井・大野をはじめ越前各地で道話を講じた。しかし大野等に心学と深い関係が結ばれたのは、柴田鳩翁の文政九年(一八二六)来講以来のことであった。天保二年再度大野を訪れたとき、藩士笹島武昭の弟一作が鳩翁に師事することになり京都へ伴われて薫陶を受けたが、彼が鳩翁の後を嗣いだ遊翁である。鳩翁は天保三、四年と大野へ下っているが、同五年からは一作が代講として大野を訪れている。鯖江にも一作らにより心学が広まり、藩により心学教授所謙光舎が設立された。
 小浜からは伴信友と東條義門が出て国学上に不朽の業績を遺した。信友は小浜藩士、本居宣長の著述を学び、享和元年(一八〇一)宣長没後の門人となって宣長の養嗣本居大平の指導を受けた。著書多く特に歴史考証の面で異彩を放ち、学風は緻密で周到、確証の上に見解を立てている。東條義門は小浜妙玄寺住職、国文法の研究を進め、その著書「山口栞」などは動詞・形容詞・助動詞の新研究として高く評価されている。
 福井藩士中根雪江も宣長の著述を中心に勉学に志し、天保九年江戸詰となり平田篤胤の門人となった。雪江は福井にて国学の精神を唱道し、著名な歌人橘曙覧もその教導をうけた一人である。雪江は藩政の中枢にあって幕政の政局に重要な役割を果たした。
 蘭学と医学の振興には著しいものがあった。
 小浜藩医の杉田玄白・中川淳庵の活動の場は江戸にあった。前野良沢とともに解体新書の翻訳に従い、安永三年(一七七四)刊行された。福井藩では笠原良策(白翁)等の活動が蘭方医学の囁矢といわれる。良策は嘉永二年(一八四九)種痘を福井に伝えたことで知られ、済世館にて漢方医学に加えて蘭方医学を兼修させた。また藩校明道館にては、橋本左内は蘭学の振興にも努めている。
 大野藩七代土井利忠は蘭学に深い関心を寄せた。弘化元年(一八四四)明倫館建設され、兄の良休とともに藩政改革の主役となる内山隆佐は、その世話役の一人となった。明倫館では蘭学の授業が重視されている。安政二年(一八五五)緒方洪庵の適塾で塾頭を勤めた伊藤慎蔵が招かれて大野に来り、翌年開設された蘭学館(洋学館)の教授方を命ぜられた。蘭学修行は同藩の蝦夷地開拓にも生かされている。洋学館へは近藩はもとより全国各地より留学生が来集している。
 右は本巻記述のうちより恣意的に若干の事項を取り上げて簡単に紹介したまでである。本巻は二二名の執筆の手に成る。平成四年三月より合計一九回を数えるが、執筆者が担当部分につき研究発表を行い、検討を重ねてきた。この問も資料の採集を怠らず、今日までの諸研究の成果を踏まえ、またその批判の上に立って、本巻は成ったといえよう。
 擱筆するにあたり、編集・執筆・刊行に関与担当された諸氏に厚く敬意を表し、資料の採集・提供に協力援助を賜った各位に深く謝意を捧げるしだいである。
  平成八年三月
                                    小 葉 田  淳



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