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 第五章 宗教と文化
   第五節 建築物と絵画
     五 工芸
      刀剣と金工
 戦国末から江戸時代初期にかけ各地に新興の城下町が誕生した。その町には武士の需要に応じて刀工が蝟集して技を競い、伝統の束縛から離れた力強い江戸新刀の様式を確立していった。とりわけ京都・江戸・大坂・北庄(福井)・紀伊和歌山・肥前佐賀で、優れた刀工の集団が形成されたといわれている。北庄では、下坂康継の系統が中心で、古刀期の面影を残した質実剛健な作風の名刀を鍛えていた。
 福井藩の刀工初代康継は、通称を市左衛門といい、近江坂田郡下坂村の鍛冶大宮市左衛門兼当の孫で後に姓を下坂と改めている。諸国を遊歴して技を磨き、天正年間(一五七三〜九二)に越前に定住している。初め一乗谷に住し、次いで北庄に移り結城秀康の知遇を受けることになった。やがてその作刀が秀康の父徳川家康の目にとまり台命で江戸に召致された。以後康継は江戸・北庄間を往復している。康継は刀銘に「肥後大掾藤原下坂」と切っていたが、家康の庇護を受けるに至り葵紋と「康」の一字使用を許され、「越前康継」を刀銘としている。康継の刀は南蛮鉄を使い、作風には家康好みの渋さがみられる。康継は江戸新刀の開祖とされているが、その影響で当時の江戸の刀工には越前出身者が多かったといわれる。康継が弟子の養成に力を尽くしたことによるものであろう。初代康継は元和七年(一六二一)に没した。初代の没後長男市之丞康悦が二代康継を継承している。二代目も父に劣らぬ技術の持主で秀作を残している。
 下坂家の子孫は三代目より江戸・越前の二家に分立した。江戸下坂家は康悦嫡男の右馬助が継ぎ、越前下坂家は初代康継三男の四郎右衛門が継承した。江戸・越前両下坂家では交代制で「康継」を公称したようで、越前下坂家では三代・五代が刀銘に「康継」と切っている。
 越前下坂家は江戸期を通じて福井藩より扶持を受け、明治二年(一八六九)の廃業まで九代続いた(図36)。嘉永五年(一八五二)の福井藩給帳では、「切米廿石 下坂市之丞」とあり、その弟子「鎚打」二人に対しても、「銀百弐拾匁 一人扶持ツゝ」が給与されている(松平文庫 資3)。同給帳には刀工として嶋田小太郎(切米一八石三人扶持)の名も見えるが、嶋田家は三代藩主松平忠昌に召し抱えられた嶋田山城守国清の末裔である。
 福井藩の職人には、刀工のほかに甲冑師・鍔師などに優れた人材を輩出しているが、ここでは記内・明珍と具足師岩井を紹介するにとどめる。
 鍔師記内の初代は石川氏で、康継の作刀に竹・竜などの彫刻を施し名声を得ていた。二代目記内より高橋を姓とし、代々鍔師として福井藩より扶持を受け、天保年間(一八三〇〜四四)の「給帳」では「三人扶持 鍔師記内」とある(松平文庫)。越前彫、記内彫と呼ばれ、丸形の鉄地に図柄を肉彫透かしにした鍔が多くみられる。写真236の金覆輪竜図透鍔は、「正保元年三月吉日 越前住記内作」と紀年銘を刻した珍しい作品である。
 甲冑師明珍も江戸時代を通じて代々福井藩とかかわり、甲冑をはじめ鷲・海老の自在置物や鍔などに逸品の数々を残している。初代吉久は寛文四年(一六六四)に没しており、魚鱗具足(写真237)の制作者でよく知られている小左衛門吉久はその四代目に当たる。魚鱗の具足については、「御召料御具足并御秘密御道具」(松平文庫)に「鍛冶小左衛門作・岩井勝右衛門仕立」とあり、七代藩主吉品の命で制作に着手し、八代吉邦の時代に完成したことが明記されている。なお、明珍一門は江戸の本家を中心に、幕末には一三か国二〇家に分派しており、福井明珍もその一家であった。
写真235 康継の脇差

写真235 康継の脇差


図036 越前下坂家系図

図036 越前下坂家系図

写真236 金覆輪竜図透鍔

写真236 金覆輪竜図透鍔

写真237 魚鱗具足

写真237 魚鱗具足

 また、前述の魚鱗具足を仕立てた具足師岩井勝右衛門も全国に分布した岩井一門に属し、その中心は幕府の御用具足師岩井与左衛門家であった。岩井家のうちで福井藩と最も早い時期にかかわった例では「明暦元外字越前住岩井喜勝作」と銘のある具足が伝えられている。幕末頃の岩井家では嘉永五年「給帳」の諸職人の中に「五人扶持 岩井勝之助」の名が見える(松平文庫 資3)。



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