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 第五章 宗教と文化
   第五節 建築物と絵画
    四 岩佐又兵衛と狩野派
      敦賀の画人
 敦賀には江戸時代の初期に三代にわたる鷹絵師がおり、「長兵衛鷹」「敦賀鷹」として珍重されていた。初代の橋本長兵衛は慶長年間(一五九六〜一六一五)の人で、鷹匠であったともいわれる。鷹の生態を活写した濃彩の作品を描いており、「架鷹図六曲屏風」(私立敦賀郷土博物館蔵)がその代表作といえる。二代橋本長兵衛は、寛永十三年、小浜藩主酒井忠勝が日光東照宮に奉納した鷹の絵の扁額と屏風を描いた人物として知られている。その鷹の絵の制作に当たっては十数回にわたり忠勝自身が細かな指示を江戸から国元の老臣に書き送っている。寛永十二年五月十六日付書状では、「鷹之絵屏風弐双分成程念を入書セ可申候、日光へ上ケ申候間、末代之事ニ候間、其段絵書ニ能申付書セ可申」と、特段の吟味を指示し、完成後の翌十三年四月八日付では、「鷹之絵板十二枚無事ニ相届候、絵も一段能書申候」とその出来映えに満足している(「酒井忠勝書下」)。二代長兵衛は、このように老中の要職にあった主君忠勝の期待にこたえうるような技量の持主であったが、正保四年(一六四七)に没している。二人の画風については、初代が曽我直庵の、二代目が直庵の子二直庵の影響を受けているとされている。元来曽我派といえば、越前の戦国大名朝倉氏の庇護によって成立した流派であるが、朝倉氏の滅亡後近世曽我派の祖とされる直庵は越前より和泉の堺に移住、同地で優れた鷹画を描いている。
写真232 架鷹図六曲屏風(初代橋本長兵衛)

写真232 架鷹図六曲屏風(初代橋本長兵衛)

写真233 枯木鷹図(二代橋本長兵衛)

写真233 枯木鷹図(二代橋本長兵衛)

 橋本家の三代目については、「橋本仙渓」「橋本仙桂」の名で作品が伝えられているが、異質の作風から同一人物か、別人か判定しがたいところがある。仙渓は、鷹の画題で優れた作品を描いている。一方、仙桂は狩野探幽の影響を受けた人物画や花鳥画を残しているが、落款では自身を「越前敦賀鷹絵師橋本仙桂」と称している。仙桂は、通称が新之助で、小浜藩絵師として扶持を受け、元禄十五年に六九歳で没した。
 江戸末期の敦賀においては、内海元孝とその養子内海元紀が活躍している。元孝は、安永元年の生まれで、一三歳で上京、当時京都画壇の重鎮であった円山応挙に師事し、また同門の先輩長沢芦雪からも指導を受けている。元孝は、応挙・芦雪の没後敦賀に帰住、円山派の写生画の画風を忠実に守って多くの作品を残した。その作品は諸寺社の襖絵や扁額、あるいは屏風・掛軸から版画に至るまで多岐にわたっている。天保六年に没した。
 内海元紀は、文化九年に敦賀で生まれる。絵の修業のため上京、四条派の岡本豊彦に入門した。四条派の祖は豊彦の師松村呉春である。その呉春は円山応挙の弟子であったが、円山派の画風に詩情を加えて新派を樹立、次第に京都画壇の中心勢力になっていった。元紀もその四条派の花鳥画や人物画を描いていたが、晩年には南画に移行し山水画を得意とした。明治・大正期の画壇で活躍した内海吉堂は元紀の長男である。
写真234 花卉図襖絵(内海元孝)

写真234 花卉図襖絵(内海元孝)



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