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 第五章 宗教と文化
   第五節 建築物と絵画
    四 岩佐又兵衛と狩野派
      福井城下の画人
 福井狩野家を厳しく批判した岡部南嶽は、狩野派の絵画に飽き足らず当時勃興期にあった南画に傾倒した。『近世逸人外字史』(一八二四)では、南嶽を「福井侯之臣、墨竹専門」と紹介している。岡部は、名を貞起、通称左膳、画号を南嶽と称した。岡部家は家禄一五〇〇石で、福井藩内で最高の門閥藩士の一人であった。左膳は明和六年(一七六九)に家老に就任し、在任すること三二年、寛政十二年(一八〇〇)に病没している。
 幕末の文人画家として名声を得ていた福井藩士に川地柯亭がいる。柯亭は画号で、名は義裕、通称を又兵衛といった。安永九年(一七八〇)の生まれで、文化十四年(一八一七)に家督一〇〇石を相続、留守物頭などの武官の職を歴任した。弓馬の術にも優れていたが、ことに画を好み、江戸詰の折には谷文晁に師事している。生涯画筆を離さず、晩年である明治五年(一八七二)の作品「桃太郎話」の図には「九十二翁柯亭写」と署名している。
写真229 若竹の図(岡部南嶽)

写真229 若竹の図(岡部南嶽)

写真230 夏景山水の図(川地柯亭)

写真230 夏景山水の図(川地柯亭)

 福井の町絵師で画名が高かったのは早瀬蘭川・来山父子である。蘭川は福井城下神明町で生まれ、京において精緻な装飾的画風で著名な原在中に入門した。蘭川は美人画で評判を得たが、天保八年六一歳で没している。来山は文化五年に生まれ、父蘭川同様上京して四条派の松村景文・岡本豊彦に絵を学んだ。ことに豊彦にその才能を認められ養嗣としたいとの誘いを受けた。しかし、父の反対にあって郷里に戻り、家業を継承した。
 町絵師早瀬蘭川の弟子に岩尾雪峯がいる。雪峯は画号で、岩尾周助と称した福井藩の下級武士である。天保七年に福井藩が制作した「越前国之図」には御用掛一八人が裏書されており、岩尾周助もその中に御絵師手伝として名をつらねている。当時彼は預所元締役下代の地位にあったことか
らもわかるように専門絵師ではなかったが、画技を認められて臨時に絵師手伝に加えられたようである。江戸詰の折には藩邸の襖絵を描いており、重臣酒井外記の絵の指南にも当たっていた。周助は軽輩ながら実務にも長じ、嘉永五年には帳付に昇進し、切米一二石三人扶持を得ていた。
 岩尾雪峯の弟子で画人として大成した人物に福井藩士島田雪谷がいる。雪谷は画号で、名は広意、通称を範左衛門といった。安政元年(一八五四)に家督一八石三人扶持を相続、広敷添役など奥向きの公務に服しながら藩邸の障屏画を描き、画業に精進した。前藩主松平慶永・藩主茂昭に画家としての才能を愛され庇護を受け、多くの弟子を育てている。嫡男雪湖・二男墨仙も優れた画家となるが、ことに墨仙は橋本雅邦に師事して人物画の大家となった。
写真231 桜花群禽の図(島田雪谷)

写真231 桜花群禽の図(島田雪谷)



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