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 第五章 宗教と文化
   第五節 建築物と絵画
    四 岩佐又兵衛と狩野派
      狩野派の人々
 狩野永徳の孫探幽が幕府に絵師として重用されるのは元和年間のことである。中国宋元画を土台に発達した漢画は、狩野探幽によって和様化の磨きが加えられ、江戸狩野様式が確立したのであった。寛永年間には探幽の弟尚信・安信も幕府の御用絵師となり、やがて幕府の絵画御用の主要部分は、狩野派が独占的に請け負うことになった。次第に諸大名も狩野派の絵師を召し抱えるようになったが、福井藩も例外ではなかった。
 寛永十五年、福井藩主忠昌は狩野派絵師渡辺了桂の子狩野了之(九兵衛、破墨斎)を京都において召し抱えた。福井狩野派の元祖に当たる人物である(「諸士先祖之記」松平文庫)。了之は、父の了桂同様狩野永徳長男の光信に師事した。京において画名高く、狩野姓を許されている。了之は福井藩に抱えられた後も洛中住居を許されていたが、後に福井城下に移った。
 万治三年(一六六〇)、了之の没後嫡男元昭(九郎次郎)が知行一五〇石を与えられて家業を継承した。藩主光通に画才を認められ優遇されている。その縁によるものか、光通開基の大安寺に元昭の作品が多く残されている。
図034 福井狩野家系図

図034 福井狩野家系図


図035 奈須家系図

図035 奈須家系図
写真226 山水図(狩野了之)

写真226 山水図(狩野了之)


 元昭の跡は長子竹雲が相続したが、貞享三年藩主綱昌改易と時を同じくして死没したため福井狩野家は断絶するに至った。元昭四男興碩(初め種信)は、江戸において奥絵師中橋狩野家の永叔について画技を磨き、元禄七年(一六九四)福井藩に帰参を許されて中興の祖となった。福井狩野家は系図34にみられるように九代続いた。八代永昌についてみると、天保三年(一八三二)に江戸藩邸の住居向御絵図認方となり、次いで同七年には御国絵図御用掛を命じられている(「諸役人并町在御扶持人姓名」松平文庫)。
 しかし、福井狩野家の画業に対する評価は次第に低下していった。画人としても優れていた家老の岡部左膳(画号南嶽)は、同僚の本多筑後に宛てた書簡の中で、「此地狩野家は何程同と申候ても墨色薄く、只弱々と相見一
 向見る気も無之候」(『越前人物志』)と、福井狩野派を厳しく批判している。
写真227 群禽松竹梅図(狩野種信画)

写真227 群禽松竹梅図(狩野種信画)


 福井藩の御抱絵師には福井狩野家のほかに奈須家があった。初代泉石は、初め奈須清右衛門と称して幕府奥絵師中橋狩野家の安信に入門し、寛文八年光通に召し抱えられ、天和三年(一六八三)法橋位を得ている。後に主命で狩野泉石と改めたが、三代輪石が家督を相続した延享元年(一七四四)から再び奈須姓に復している。
 奈須家は、奥絵師中橋狩野家と関係が深く、二代泉碩は永叔に入門、師に従って上京し禁裏の絵画御用を果しており、六代凉泉も嘉永年間(一八四八〜五四)に永悳に師事している(図35)。 
写真228 花蝶の図(奈須泉石)

写真228 花蝶の図(奈須泉石)



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