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 第五章 宗教と文化
   第五節 建築物と絵画
    四 岩佐又兵衛と狩野派
      又兵衛とその末裔
 松平忠直・忠昌の頃、北庄(福井)に岩佐又兵衛という異形の絵師が住んでいた。「越翁雑話」に「忠昌公御前において御夜話の節、ある人申し上けるは今日大橋の上にて異風なる男に逢申候、緋縮緬の股引をはき居と申す、公聞かせ玉ひて夫は浮世又兵衛なるべし」と伝えられている。この「異風なる男」が又兵衛勝以である。彼は、後に近松門左衛門によって創作された絵師「吃又」と混同され伝説化した。近松の父杉森信義は、忠昌三男で吉江藩主の松平昌親に仕えていたが、故あって浪人し京都に移住した。近松は、父とともに越前に在住時代又兵衛のことを聞いていたことであろう。
 岩佐又兵衛は戦国武将荒木村重の遺児であった。村重が織田信長に背き一族が誅殺された時、二歳の幼児であった又兵衛は乳母に抱かれてからくも死地を脱した。彼は京都に住み画家となるが、元和二年(一六一六)頃北庄に移住、三八歳から五九歳の二〇年余を越前の地で過ごすことになった(「廻国道中記」)。
 又兵衛の生活を支えたものは画業であり、大藩の庇護を受け、活気に満ちた北庄の豪商の求めに応じて制作に従事していたことと思う。グラビアに掲載した「金谷(屋)屏風」(福井県立美術館・東京国立博物館などに分蔵)がその頃の代表作といえるが、金屋家は鉄の売買を独占するかたわら金融業をも営む豪商であり、狩野探幽を招いて襖絵を描かせた。
 当時は狩野派全盛の時代になっていたが、又兵衛は「土佐光信末流」と自称し、土佐派はもとより狩野派・海北派・雲谷派の影響を受けながらも、自由な立場から独自の画境を開拓していた。ことに人物表現には顔に「豊頬長頤」といわれる特色がみられた。その画風には諧謔性と憂愁が秘められており、波瀾に富んだ奇異な人生体験が反映している。又兵衛の名声は江戸にも達し、寛永十四年(一六三七)将軍家御用によって妻子を福井に残して出府、慶安三年(一六五〇)江戸にて没した。
写真224 三十六歌仙図(岩佐又兵衛)

写真224 三十六歌仙図(岩佐又兵衛)

 ところで、又兵衛勝以の作画活動は、工房として多くの画工を抱え、藩主の用命や寺社・豪商の需要に応じていたものと考えられる。勝以の出府後、その工房を継承したのは二〇歳前後に成人していた嫡子の源兵衛勝重である。岩佐家の由緒書に、「父業を継ぎ家声を堕さず、光通公月俸賜ふ、寛文年中福井城鶴之間及び椙戸画く」とあり、勝重が四代藩主の松平光通の御抱絵師として活躍していたことがわかる。文中にみえる本丸殿舎鶴之間の作画は、寛文九年(一六六九)大火後の福井城再建にさいし、狩野派の絵師とともに障壁画の制作に当たったことを指している。勝重が彩管をふるったとされる斬新な作風の襖絵「群鶴図」は、後年屏風二双に仕立て直されて現存している。しかし、その絵にはもはや父又兵衛勝以の画風は感じられない。
写真225 群鶴図(岩佐勝重)

写真225 群鶴図(岩佐勝重)

 源兵衛勝重の跡はその子陽雲以重が相続した。岩佐陽雲は六代藩主綱昌が貞享三年(一六八六)に改易となった折に浪人し、その後分家の松岡藩松平家に仕官している。しかし、松岡藩における役職は坊主であり、職業画家としての岩佐派は絶えている。なお、陽雲については「狩野門人譜」に、「安信門人岩佐陽雲、初意宅、本那須泉石門人」とある。那須泉石は後述する福井藩御抱絵師奈須家の元祖狩野泉石のことであり、陽雲は画家の時代においても祖父又兵衛の創始した岩佐派を離れ、狩野派一門に属していたのであった。
 



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