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 第五章 宗教と文化
   第五節 建築物と絵画
     五 工芸
      三国木彫と三国焼
 九頭竜川の河口、日本海に面した三国湊は、福井藩唯一の外港としてその庇護のもとに発展した。ことに江戸末期から明治初期にかけて北前船交易が最盛期を迎えるなかで、三国では富を築いた多くの船主が台頭している。幕末期において三国湊の繁栄に支えられた工芸には、三国木彫と三国焼があった。
 三国木彫は、幕末より明治初年にかけて興隆した志摩派の装飾彫刻を指す。志摩乗時(初代竜斎一七九〇〜一八五〇)は、三国木彫の伝統的技法に工芸的な美しさを加えた装飾彫刻の分野を開拓した。三国の専久寺本堂欄間の高浮彫や、山王神社本殿向拝装飾が代表的な遺作である。
写真238 専久寺欄間

写真238 専久寺欄間

 乗時の弟子島雪斎(一八二〇〜八四)も寺社建築の装飾彫刻に優れた技量を発揮し、一方、置物や根付などの小物類にも精緻で巧妙な技術を駆使した名品を残している。ことに松平春嶽の知遇を得て朝廷に紫檀の書棚を献上し、その功で法橋の官に叙せられている。また、鷹司家の儒官で同郷の三国大学(幽眠)に招かれて数年を京都で過したが、その滞京中の作品が安政五年(一八五八)に上梓された『雪斎運金図譜』に収録されている。
 志摩派彫刻師の活躍の時期は幕末期に限られるが、このような土壤から明治期の名彫刻家山田鬼斎(一八六四〜一九〇一)が生まれたのである。
 志摩派彫刻と時期を同じくして三国焼の札場窯が隆盛期を迎えている。札場窯は、初代札場嘉右衛門が京都で楽焼の技法を習得し、明和五年(一七六八)に三国焼の吉川窯(一六九〇創業)を引き継いだことに始まる。二代目太兵衛は三彩釉を手掛け、文政五年三代窯元となった半左衛門より札場窯と称した。この頃、赤九谷の手法を完成した陶画工飯田八郎右衛門(一八〇四〜五二)を招き、赤絵金彩の磁器生産に着手している。嘉永六年に四代窯元となった半三郎の時代が全盛期で、慶応年間(一八六五〜六八)には磁工五〇人、陶工三〇人を擁していた。しかし、原土を遠隔地より運ぶなど産地としての条件に恵まれず、五代半次郎の頃経営に行き詰り、明治二十九年に廃業した。
写真239 赤絵金彩徳利

写真239 赤絵金彩徳利



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