乗時の弟子島雪斎(一八二〇〜八四)も寺社建築の装飾彫刻に優れた技量を発揮し、一方、置物や根付などの小物類にも精緻で巧妙な技術を駆使した名品を残している。ことに松平春嶽の知遇を得て朝廷に紫檀の書棚を献上し、その功で法橋の官に叙せられている。また、鷹司家の儒官で同郷の三国大学(幽眠)に招かれて数年を京都で過したが、その滞京中の作品が安政五年(一八五八)に上梓された『雪斎運金図譜』に収録されている。
志摩派彫刻師の活躍の時期は幕末期に限られるが、このような土壤から明治期の名彫刻家山田鬼斎(一八六四〜一九〇一)が生まれたのである。
志摩派彫刻と時期を同じくして三国焼の札場窯が隆盛期を迎えている。札場窯は、初代札場嘉右衛門が京都で楽焼の技法を習得し、明和五年(一七六八)に三国焼の吉川窯(一六九〇創業)を引き継いだことに始まる。二代目太兵衛は三彩釉を手掛け、文政五年三代窯元となった半左衛門より札場窯と称した。この頃、赤九谷の手法を完成した陶画工飯田八郎右衛門(一八〇四〜五二)を招き、赤絵金彩の磁器生産に着手している。嘉永六年に四代窯元となった半三郎の時代が全盛期で、慶応年間(一八六五〜六八)には磁工五〇人、陶工三〇人を擁していた。しかし、原土を遠隔地より運ぶなど産地としての条件に恵まれず、五代半次郎の頃経営に行き詰り、明治二十九年に廃業した。 |