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 第五章 宗教と文化
   第五節 建築物と絵画
    二 寺社建築
      越前の寺院
 近世の寺院には中世以来の伝統をもつもの、大名によって造営されたもの、寺請制度に支えられ江戸期に広く成立をみたものなどがある。ここでは、近世寺院の典型ともいえる大名による造営の例として、松平光通の発願により万治三年(一六六〇)に創建された臨済宗の万松山大安禅寺(福井市田ノ谷)を取り上げる。
 光通(法号大安寺殿)は、大愚宗築に深く帰依し、明暦元年(一六五五)彼を越前に招聘し一寺を建立した。万治三年の寄進目録によると、寺地に定められた坂井郡田谷村を中心に周辺の山林を含め三〇〇石が寄付されている(大安寺文書 資3)。
 文政八年(一八二五)、福井藩の作事方が作成した指図によると、伽藍配置には、本堂はじめ庫裡・霊屋・衆寮・鐘楼などが見え、創建当初の姿が現在に至るまでよく保存されている。霊屋は、開基旦那松平光通を祀ったもので、正面六・五七メートル、側面六・八二メートルの方形造の建物である。前半部分は畳敷、後方の須弥壇に位牌が置かれている。延宝五年(一六七七)の棟札には福井藩の大工頭関清助の名が見え、光通の三回忌に藩によって建設されたことがわかる。
 霊廟建築としては、福井藩菩提寺の運正寺境内にも浄光院廟をはじめ歴代の霊廟があった。昭和二十三年(一九四八)の福井大地震後、被災地域の福井市と吉田・坂井両郡にまたがり、越の国三十三札所観音堂が設置されることになり、霊廟のいくつかがそれにあてられ移築された。藩祖秀康の浄光院廟は西藤観音堂(福井市三郎丸町)、天梁院(斉承)廟は大安寺観音堂(福井市天菅生町)、諦観院(斉善)廟は称名寺観音堂(三国町黒目)となり、その遺構が現存している。
写真219 大安寺霊屋

写真219 大安寺霊屋

写真220 西藤観音堂(浄光院廟)

写真220 西藤観音堂(浄光院廟)

 越前は、蓮如が吉崎に北陸布教の拠点を置いて以来真宗王国としての伝統がある。そのことは越前における寺院総数のうち六割が浄土真宗の寺院で占められていることによってもうかがえる。これらのうちには比較的規模の大きい本堂をもつ寺院もみられる。真宗寺院のうちで最も古い形式を伝えているのが高徳寺(敦賀市神楽町)であり、県文化財に指定されている。元和元年の上棟とされており、入母屋造棧瓦葺建物の内陣には古式の押板形式仏壇を備えている。
 吉崎御坊跡は「御山」と称される広大な丘陵上にあるが、その麓に浄土真宗本願寺派別院と同大谷派別院がならび立っている。大谷派別院本堂は延享四年(一七四七)、本願寺派別院本堂は寛政九年(一七九七)にそれぞれ再建された。大谷派別院本堂内陣は、来迎柱・須弥壇をもつ後門形式の県内における初例とされており、この浄土真宗寺院本堂特有の形式は近世中期に成立をみている。
 本山寺院では規模の大きな御影堂と阿弥陀堂を並置しているが、真宗三門徒派本山専照寺(福井市みのり二丁目)が典型である。現御影堂は天保九年の再建で、正面三〇メートル、側面二七メートルの入母屋造棧瓦葺で、本山寺院にふさわしく規模が大きく堂々としている。
写真221 高徳寺本堂

写真221 高徳寺本堂
写真222 大谷派別院本堂

写真222 大谷派別院本堂




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