近世の寺院には中世以来の伝統をもつもの、大名によって造営されたもの、寺請制度に支えられ江戸期に広く成立をみたものなどがある。ここでは、近世寺院の典型ともいえる大名による造営の例として、松平光通の発願により万治三年(一六六〇)に創建された臨済宗の万松山大安禅寺(福井市田ノ谷)を取り上げる。
光通(法号大安寺殿)は、大愚宗築に深く帰依し、明暦元年(一六五五)彼を越前に招聘し一寺を建立した。万治三年の寄進目録によると、寺地に定められた坂井郡田谷村を中心に周辺の山林を含め三〇〇石が寄付されている(大安寺文書 資3)。
文政八年(一八二五)、福井藩の作事方が作成した指図によると、伽藍配置には、本堂はじめ庫裡・霊屋・衆寮・鐘楼などが見え、創建当初の姿が現在に至るまでよく保存されている。霊屋は、開基旦那松平光通を祀ったもので、正面六・五七メートル、側面六・八二メートルの方形造の建物である。前半部分は畳敷、後方の須弥壇に位牌が置かれている。延宝五年(一六七七)の棟札には福井藩の大工頭関清助の名が見え、光通の三回忌に藩によって建設されたことがわかる。
霊廟建築としては、福井藩菩提寺の運正寺境内にも浄光院廟をはじめ歴代の霊廟があった。昭和二十三年(一九四八)の福井大地震後、被災地域の福井市と吉田・坂井両郡にまたがり、越の国三十三札所観音堂が設置されることになり、霊廟のいくつかがそれにあてられ移築された。藩祖秀康の浄光院廟は西藤観音堂(福井市三郎丸町)、天梁院(斉承)廟は大安寺観音堂(福井市天菅生町)、諦観院(斉善)廟は称名寺観音堂(三国町黒目)となり、その遺構が現存している。 |