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 第五章 宗教と文化
   第五節 建築物と絵画
    二 寺社建築
      越前の神社
 神社本殿の建築様式は全国的に流造本殿が最も多く、越前においても八割は流造であった。この様式は、切妻造平入の屋根にそりをつけ、その長い前流れを向拝としている。近世の越前における流造本殿の代表例をあげると重要文化財の春日神社・大滝神社、県指定の大湊神社・常宮神社がある。
 春日社は鯖江市鳥井町にあり、『延喜式神名帳』にみえる大山御板社に比定されている。治暦四年(一〇六八)に春日社に改めたとされ、付近一帯一五村の総社であった。戦国期の戦禍で焼失、慶長十八年(一六一三)に再建されたものが現本殿といわれる。三間社流造柿葺の建物で、県内神社建築の最古の遺構(室町時代後期)とされる池田町の須波阿須疑神社本殿と、細部において類似点が認められる。
写真216 春日神社本殿

写真216 春日神社本殿

 日本海に浮かぶ雄島に鎮座する三国町安島の大湊神社も『延喜式神名帳』にみえる古社である。天正期(一五七三〜九二)の兵火で焼失した社殿は松平忠直によって再建された。その棟札によると現本殿は元和七年(一六二一)の造営で、福井藩の大工石井備中が担当した。「忠直公御家中給帳」によると石井は知行二〇〇石を給されていた。本殿は一間社流造柿葺で、規模こそ小さいが、漆や胡粉・金箔などを用いた彩色や彫刻に特色がある。建立当時は忠直の絶頂期で、今でこそ褪色してはいるが、華麗な装飾を通じ太守の庇護の一端がうかがえる。
写真217 大湊神社本殿

写真217 大湊神社本殿

 今立町大滝の大滝神社は、泰澄開基と伝えられ、江戸時代には大滝寺といい、製紙業で繁栄した五箇村を中心に近郷四八村の鎮守として崇敬され、明治維新期の神仏分離令で現社名に改められた。
 権現山の麓に南面する本殿・拝殿は天保十四年(一八四三)に再建されたものである。天保飢饉直後の造営であるが、それだけに当社に寄せた地域の人々の信仰の厚さがうかがえる。
 社殿は複雑な建築様式と装飾彫刻の多用によって、近世後期における神社建築の特色をよく示している。写真でみられるように本殿と社殿は複合社殿になっている。本殿は高い基壇上にあって拝殿との床高に差ができている。その差を利用して流造の本殿屋根が拝殿に葺きおろされ、それに千鳥破風・唐破風が巧みに組み込まれ複雑な屋根の構造となっているが、流造社殿としては異例である。
 当社殿の造営費は、天保十一年の記録によると材料費を除き四六五両であった。また、施工者が永平寺門前の志比大工棟梁大久保勘左衛門であったことも知られる。
写真218 大滝神社の本殿および拝殿

写真218 大滝神社の本殿および拝殿

 最後に入母屋造本殿として県指定の文化財の劒神社をあげておく。丹生郡織田町の劒神社は越前二の宮として知られ、現本殿は寛永四年(一六二七)の建立と伝えられている。入母屋造の主屋根の正面に千鳥破風を付し、さらに向拝の中央に唐破風のつく複雑な屋根の構造である。屋根を複雑化する傾向は、入母屋造本殿の特徴といえる。



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