越前最大の都市であった福井城下を例に、その武家屋敷について考えてみたい。広大な城郭内は武家屋敷で占められていたが、主君の居城を中心に身分の上下によってその住居は整然と区画されていた。門閥上士層の邸宅は藩主に近侍するように城を取り巻き、その外周には中級武士の屋敷が配されていた。
下級武士の大多数、つまり目見以下の組長屋になると、城下町を警固するかのように町の周辺部に配置されていた。ことに領内各地から福井城下に通じる主要道の出入口付近に集中していた。
住宅もまた家格や禄高によって面積の広狭が定められている。上級武士では五〇〇坪から四〇〇〇坪と広く、中級武士では二〇〇坪から三〇〇坪、下級武士になると目見以上の小役人・徒で六〇坪、目見以下の組長屋では一戸分二五坪程度であった。
門閥上士層の事例として知行四五〇〇石の重臣狛家の場合をあげてみる(写真213)。狛家は大名広路の西側にあり、三七四〇坪の広い面積を有していた。門を入ると唐破風のついた玄関が見える。南側に宏壮な接客用の書院住宅があり、それを中心に当主の居間・茶ノ間・台所などが置かれていた。主殿に当たる接客空間は大きく、主室一八畳、次ノ間二七畳、三ノ間二〇畳からなり、邸内において最も重視されていた建物であった。狛家は歴代家老職を勤めており、多くの家臣(陪臣)を召し抱えていた。陪臣とその家族の住居も屋敷内にあったが、その長屋は道路沿いの塀に接していた。陪臣の人数は、狛家に次いで高禄の重臣であった四〇二五石の酒井外記家の場合では、明治二年の「家来人別御改手形」(酒井康家文書)によると譜代二八家、雇徒士三人・足軽二人・下僕八人・召遣女四人・仲居二人で、その家族も含めると一三九人の大世帯であった。上級武士の住居が広い屋敷だといってもこれだけ多くの人々を収容していたのである。 |