目次へ  前ページへ  次ページへ


 第五章 宗教と文化
   第五節 建築物と絵画
    一 城郭と城館
      御泉水屋敷
 本丸内に豪壮な書院造の殿舎が建てられた一方で、簡素な数寄屋風書院も建てられている。その典型が城郭内にあった松平家別邸の御泉水屋敷である。江戸期には「御泉水屋敷」と称されていたが、明治二十四年(一八九一)に旧藩士由利公正が屋敷の玄関に「養浩館記」の額を掲示したことから、今では養浩館の名称が一般化している。
 御泉水屋敷は、江戸中期宝永年間の創建とされているが、実は江戸時代前期より存在し、現在の庭園が完成したのも元禄十二年のことであった。
写真212 御泉水邸(養浩館)

写真212 御泉水邸(養浩館)

 元和八年に討たれた重臣永見右衛門の屋敷が、寛永元年に福井藩主となった松平忠昌によって別邸に用いられたことがその濫觴とされる。永見氏旧邸は、福井城の北方約四〇〇メートルの所にあり、城郭の土居に接していた。その位置が福井城守備の要地に当たることから藩の管理下に置かれた。たまたま同地が芝原用水に近接しており、豊富な水が得られたことから、広い池を中心とした泉水邸になったものと考えられる。
 史料の初出は、『国事叢記』明暦二年(一六五六)の条で、藩主光通の側室が「御泉水御屋敷」において権蔵(後の松平直堅)を生んだという記事である。万治二年以前の「御城下之図」にも「御泉水」と明記されている。さらに『国事叢記』元禄十二年六月朔日の条に、「昌明君至于御代御茶屋・御風呂屋不残立替り、御数奇屋・谷の御茶屋出来、御庭木石水掛り迄御物数奇ニ被仰付」とあり、数寄屋風書院と廻遊式庭園が完成をみている。文中の「御茶屋」は、柿葺寄棟の書院建築で、御座間・御次・櫛形ノ間・鎖ノ間などの諸室からなり、御座間裏手に当たる鎖ノ間は風呂棚と炉をもつ茶座敷で、櫛ノ間には池に面して櫛形の瀟洒な窓が設けられていた。
 なお、昌明は宝永元年に将軍綱吉の一字を拝領して吉品と改名しているが、同五年隠居後の居館とするため敷地を拡大し、現在の庭園に隣接して新御泉水屋敷  を造成している。
 吉品によって造られた池泉廻遊式の庭園は、江戸中期の名園の一つに数えられ、ことに池畔の数寄屋風書院は構造・意匠がユニークなものとして知られていた。しかし、昭和二十年の戦災で惜しくも罹災し荒廃した。同五十七年に国の名勝に指定されたことが契機となって復元整備が進められ、平成五年(一九九三)春に完成した。



目次へ  前ページへ  次ページへ