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 第五章 宗教と文化
   第五節 建築物と絵画
    一 城郭と城館
      福井城内の殿舎
 大名の居館について福井城本丸内の書院造の殿舎を事例に考えてみたい。松平文庫中に各種の本丸指図があるが、ここでは天保二年(一八三一)頃の「福井城御本丸御殿指図」(資14)によってみる。大名の居館は大きく分けて三つの要素で構成されている。公的儀礼が行われたり、藩庁としての機能を果たしていたところが表向、藩主が日常の生活を営むところが中奥、側室や子女とそれに近侍する女中衆の居住空間が奥向(大奥)と、それぞれ称されていた。
写真210 福井城本丸の殿舎入口

写真210 福井城本丸の殿舎入口

 本城橋を渡り正面の瓦御門をくぐると、南面して唐破風付きの玄関が見える。玄関を入ると遠侍の徒番所(二二・五畳)や大番所(四二畳)といった警固役の詰所が続き、それを進むと鶴之間(四八畳)を経て藩主が家臣と公式に対面する大広間に至る。表向の中心である大広間は、鶴之間に続く下段之間(五二畳)と中段之間(一二畳)・上段之間(一七畳)の三室で構成されていた。上段之間には正面に松を描いた三間半の床があり、その左右には入側に付書院、反対側に帳台構がしつらえてある。儀式用の空間であった大広間などの東側には藩庁としての機能をもつ諸室が配置されている。ことに玄関の東側にある通用門の中ノ口から入ると、家老はじめ諸役人の詰所がならんでいた。
 表向の中心ともいえる大広間の北には、藩主が日常の生活を送る中奥の諸室があった。中奥の中心は御座之間(二七畳)であり、それに付属して藩主が政務を執る鉄砲之間・韃靼之間(各二二・五畳)がある。家老はじめ重臣はこの両室で藩主に謁見したのであった。
 中奥の東、つまり表向の北側には奥向の施設があり、その中心に位置したのが藩主のための奥御座之間である。ところで、本丸内にあった広大な殿舎は、明治維新後の廃藩と松平家の東京転居ですべて取り壊されたとされていた。しかし、近年の研究によって、奥御座之間の一部が松平家の菩提寺の一つ瑞源寺(福井市)本堂に移築されていることが判明した(吉田純一「福井の城」)。移転の時期は、「瑞源寺記録」(「越前史料」)に「万延元庚申年七月吉祥日、御本丸御小座敷ヲ以、奉再建本堂一宇」とあることでわかるが、「御本丸内御小座敷」は、遺構調査によって「福井城本丸御殿指図」の奥御座之間と一致するとされている。また、瑞源寺書院も、大奥小座敷を移築したものといわれる。
写真211 瑞源寺書院

写真211 瑞源寺書院



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