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 第五章 宗教と文化
   第五節 建築物と絵画
    一 城郭と城館
      石垣・堀・城門
 慶長年間に結城秀康によって築かれた北庄城(後に福井城)を例に、城郭内部の模様について考えてみたい。『国事叢記』によると造営に着手したのは慶長六年九月のことで、同十一年に完成している。「御本丸・二之丸者家康公御縄張、……諸大名御手伝」とあり、諸大名がどのように協力したかについては定かでないが、大規模な工事が行われた。石垣には四〇〇種余りの関係者の刻印が残されている。
 北庄城は、足羽川を外堀としている点で勝家の城地を引き継いでいるが、秀康はそれをさらに拡張整備した。柴田時代の本丸は、足羽川とそれに注ぐ支流吉野川の合流地点(柴田神社付近)に設けられていた。秀康は、その吉野川の流路を東方に付け替えて新川(荒川)とし、旧河川を百間堀に転用、本丸も約六〇〇メートル北の現在地(県庁)に移した。本丸は、二ノ丸・三ノ丸と二重の外郭に囲まれており、郭内の要所には一〇の櫓(本丸三・二ノ丸四・三ノ丸三)と二〇の城門が配置されていた。
 石垣で現存しているのは本丸のみであるが、天守台・城門・隅角部など重要な部分は切石を整然と積んだ切込はぎ積であり、その他の城壁は野石の面を打ち欠き積みあげた打込はぎ積となっている。石垣の構築には近江の穴生(太)衆が当たっていた。穴生衆は安土・桃山時代以後に活躍した石垣師である。
写真206 福井城本丸の巽三重櫓

写真206 福井城本丸の巽三重櫓

写真207 福井城二ノ丸の二重櫓と百間堀

写真207 福井城二ノ丸の二重櫓と百間堀

 『国事叢記』貞享三年(一六八六)六月十一日条に「今度御暇之内、堀兼左治右衛門禄三百石、穴生役ニ而、諸士刀一所ニ不置格也、穴生ハ石垣築也、江州坂本隣郷穴生村之産、天下之石垣築」とあり、穴生衆の棟梁が他の武士から嫉視されるほど福井藩において優遇されていたことがうかがえる。堀兼左治右衛門は公儀の穴生頭堀金出雲の一族であったと考えられる。万治二年(一六五九)の城下絵図によると下級武士の居住区であった城東の地蔵町付近に「穴生」とあり、堀兼支配下の穴生衆が集住していたことがわかる。
 一〇か所の櫓は、本丸の南東(巽)・南西(坤)両角の櫓のみが三重櫓で、他は二重櫓である。元来は巽・坤の両角櫓も二重櫓であった。ところが、寛文九年(一六六九)の大火で焼失した天守閣が再建されなかったため、それに代わるものとして巽・坤両櫓が三重になり、本丸正面の威容を整えたのである。
 次いで城門の主要なものを列挙すると、大馬出しの桜門と小馬出しの柳門が城郭の西辺を固め、桜門から東進して鉄門を経由し下馬門に至った。馬上で登城の武士はここで馬を下り、次の太鼓門では駕篭登城の上士も下乗した。南面する本丸の正門は瓦門と称した。
写真208 福井城の下馬門

写真208 福井城の下馬門

写真209 福井城下の加賀口門

写真209 福井城下の加賀口門

 城郭内にある城門は一七で、残り三門は郭外にあった。足羽川と北陸道が交差する地点に九十九橋が架かっていたが、その橋の両詰に門がある。北詰を照手門、南詰を小石原門といい、城下の南端を固めていた。一方城下町の北端に当たる北陸道の加賀口にも堅固な城門が設けられていた。加賀口門の周辺は堀と土居で囲まれており、福井藩が北に対する防御体制を重視していたことがうかがえる。



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