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 第五章 宗教と文化
   第五節 建築物と絵画
    一 城郭と城館
      越前・若狭の城
 天正三年(一五七五)九月、越前の一向一揆を攻め滅ぼした織田信長は北庄で論功行賞を行い、柴田勝家に越前の支配と北国征討の任務を与えた。越前の一向宗徒を平定したとはいえ、隣国加賀には一〇〇年来の真宗王国が失地回復の機をうかがっており、さらにその北方では越後の上杉謙信が南下に余念なく、勝家の任務は重かった。
 勝家は、戦国大名朝倉氏五代の城下町であった一乗谷を捨て、西北に約一〇キロメートル離れた地点、北陸道と足羽川が交差し美濃街道が分岐する要衝の地北庄にその拠点を定め、この地に足羽・九頭竜両河川を巧みに利用した平城を築き、城下町を設けたのである。戦国期における城の発展史をみると、山城から平山城を経て領国の中心に立地する平城に移る。勝家の場合、朝倉氏の一乗谷の山城を廃しいっきょに平城を築いた。北庄城とその城下町は、慶長六年(一六〇一)に徳川家康の二男結城秀康によって拡張整備され、寛永元年(一六二四)に福居(井)と改称、幕末に至るまで福井藩松平氏の本拠地として繁栄した。
 ところで、柴田勝家は北庄築城と同時に北辺の防備として甥の勝豊に坂井郡に豊原城を築かせた。勝豊は、天正四年に西方三キロメートルの地点丸岡に城を移した。丸岡城は福井平野の東北部に立地し、標高一七メートルの独立小丘陵上に築かれた平山城である。江戸時代に入り、福井藩主松平氏の支城として重臣に預けられていたが、寛永元年家老で丸岡城を預っていた本多成重が大名として独立し、それ以後丸岡藩主の居城となった。現在城郭は失われているが、天守は現存最古と伝えられ、重要文化財に指定されている。
 北庄城や丸岡城と時期を同じくして築かれた城に大野城がある。この城は大野盆地の西郊の標高二五〇メートルの独立丘陵亀山の山頂に築かれた平山城である。天正三年信長は武将金森長近に大野郡の大半を預けた。長近は、初め朝倉景鏡の居城であった戌山城に入るが、その山城を捨て至近距離にある亀山に新城を築いた。亀山城は江戸期を通じ大野藩主の居城であり、石垣など城郭の遺構が現存している。
写真204 北庄城と丸岡城(「慶長図絵図」)

写真204 北庄城と丸岡城(「慶長図絵図」)

 若狭にも唯一の近世城郭として小浜城がある。慶長五年小浜藩主となった京極高次は、戦国大名武田氏の居城であった後瀬山城を廃して海辺の雲浜の地に築城した。この城は、小浜湾に面し、南川・北川の両河川を外堀として利用している。京極氏の時代には天守の竣工に至らなかったが、後述するように寛永十九年に酒井忠勝によって完成をみている。
写真205 小浜城

写真205 小浜城

 このほか、廃城になった城が二つある。天正十一年、柴田勝家を倒した豊臣秀吉は、蜂屋頼隆に敦賀を与えた。頼隆はそれまでの領主武藤氏が居城とした湊の北西に当たる花城山城を捨て、町内を流れる笙ノ川西岸に平城を築いたが、同十七年九州出陣中に病没した。その跡は大谷吉継に与えられたので、吉継により拡張整備された。敦賀城は関ケ原戦後福井藩に属して重臣の居城となっていたが、元和元年(一六一五)の一国一城令で廃城となっている。
 九頭竜川東岸の河岸段丘上に築かれた勝山城は、天正三年柴田勝家の属将柴田勝安によって創建された平城である。江戸期に入り福井藩の重臣に預けられたが、その後勝山の地は領主が一定しなかったためか、城郭もいつしか廃されている。元禄四年(一六九一)に勝山藩小笠原氏が成立するが、城がなかったために幕府に築城を願い出た。宝永六年(一七〇九)の小笠原信辰宛老中奉書によると、「越前国勝山城今度取立付而、本丸従古来有之、……速々可有普請候」とあり、再建の名目で築城が許可された(勝山市教育委員会保管文書 資7)。長期にわたり工事が進められたようであるが、災害や財政難などの諸事情があり完成には至らなかった。



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