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 第五章 宗教と文化
   第四節 文化の諸相
     五 食事・衣類・道具
      農民の住宅および所帯道具
 ここでは農民の住居および所帯道具に限ってみていきたい。最初に住居からみていく。豪農の家は国や県指定の文化財として現在も残されており、実際に見ることが可能である。また、庄屋級の家については、巡見使の廻国の折に諸事項を書き上げさせたなかに家の建坪や間取まで描いたものがあり、ある程度推察することができる。しかし一般の農民の住居については、宗門人別帳などに建坪を記したものはあるが、その間取などの細部まで知ることはできない。
 数は少ないが農民の住居について規定した法令をあげてみると、安永(一七七二〜八一)頃の小浜藩の触に、「百姓家之儀者稲を取入候事候得ハ、身分・少々広ク致候義ハ、左なくてハ相成間敷候得共、座敷向なと入念候義無用ニ候、風雪なと之用心ニ候得ハ丈夫ニ建可申候得共、物好ケ間敷儀決而無用ニ候事」(村松喜太夫家文書)とあり、生産に必要な限りにおいて多少のゆとりは認めるが、そのほかの飾りはいっさい認めなかった。
 表141は寛保二年の吉田郡吉野境村の伊兵衛という闕所になった高持百姓の家、および家財を書き上げたものである。屋根はおそらく茅葺で平屋建、建坪は表向(間口)二、三間に奥行三、四間で、中二階的な「つし」と「角屋」(ここでは台所)および「馬屋」が付属している。内部は土間と板間および座敷からなり、板間には囲炉裏があり座敷には一部畳も使われているが、普段は莚が敷いてある。雪隠(便所)と井戸は別にあったのか、付属していたのかは不明である。石居とあるのは礎石で、数は少ないが堀立柱の家もあった。伊兵衛の場合、一般の農民にはあまりみられない物置まで持っていたようである。ここにあげた例は比較的恵まれた農民の事例で、水呑百姓の場合などはもっと貧弱なものであったろう。なお、火災との関係で町屋では板葺の家が奨励された。

表141 家屋と道具一覧

表141  家屋と道具一覧
注) 「吉野境村三人之者共家財闕所改帳」(豊島茂家文書)により作成.

 次に所帯道具類は法令類にもほとんど述べられていない。そこでこれも表141によりながらみていきたい。茶碗・鍋・俎板・水嚢などは台所用具、搗臼・箕・鎌・鋤・鍬などは農具で、これらは日々の生活にとって欠かせない道具である。戸・莚・縁板・畳などからは家の間仕切の状況もうかがえる。また、蚕飼棚や「莚はた子」からは農間余業を行っていたことを知ることもできる。桶類の用具が目立ち、現在とは異なり木がふんだんに使われている様子がうかがえる。囲炉裏縁や石板など石製用具の用途も多様で、引臼など臼類の多くも石製であろう。全部で六〇数点の品目があげられているが、贅沢品は一品もなく必要最低限の生活用具といえよう。
 江戸時代の中期になると真宗門徒の多い越前では仏壇をはじめ三ツ具足・御名号など仏具一式を揃えた家もみられるようになる。一式とはいかなくても次にあげる例にもみられるように、仏壇は貧しい家にも置かれていたようである。寛保元年、吉田郡印内村で困窮のため御用金に差し詰った高持百姓の諸道具を書き上げた帳面に、「かち臼・石臼・味噌桶・間鍋・仏壇・棚板・古櫛箱・古大鋏・草萱・鎌・梯子・破れ戸・鍬柄・土桶」(豊島茂家文書)とある。
 これだけ品目が少ないのは生活難から次々と道具を売り払った結果かもしれないが、これでは生活のしようがないと思われる。それでも仏壇だけは残している。表141には唐櫃の記載はあるものの具体的な食物はあげられていない。宝暦五年(一七五五)大野郡北西俣村の宮川小兵衛が弟へ財産を譲った史料には、白米三升、めざい三升、いりこ籾六升などと書き上げている。また、先にあげた寛保元年の別の農民の道具中に、「糸とをし」や「木綿車」の記載があり、さらには水風呂桶(赤かね蓋とも)の記載もあり、より具体的に生活の実態がうかがえる。



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