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 第五章 宗教と文化
   第四節 文化の諸相
     五 食事・衣類・道具
      農民・町人の衣類
 衣類については食事ほどにまとまったかたちでは史料は揃っておらず、諸藩の触や達しの中で、一つの条項として衣服に関する規定が述べられているにすぎない。そのほか人相書の触などのなかに身体の特徴とともに服装が詳しく記されており、これらが参考になる。ところで江戸時代に入って木綿の栽培が急速に普及したため、木綿が衣服の主流となった。しかし、仕事着などには麻なども依然として使われていた。また古木綿などとあるように古着を利用することが多かった。衣服についてはとくに身分による規定が厳しく、同じ身分でも分限に応じた服装をすることが望ましいとされていた。妻子についても同様で、とくに女性は簪からはじまって帯の裏地まで、身につけるものすべてにわたって細かく規定されていた。
 まず農民の服装は、藩領を問わず庄屋については妻子ともに絹・紬までは許された。そのほかの農民は木綿・麻布のほかはいっさい許されなかった。紬は断って許可を得れば許された。着物のえり・裏・袖口にも絹類を使うことは禁止された。また、持物として日傘や蛇目傘、女性の櫛・笄も高価なものは許されなかった。
写真203 盆踊図(岩佐勝重画)

写真203 盆踊図(岩佐勝重画)

 人相書から農民の服装をみてみることにする。最初に元禄十四年(一七〇一)の事例を紹介する。年齢は三七歳で、ねずみ色木綿の着物に無地黒茶で所々破れた木綿の羽織、浅黄嶋の木綿の帯を締めている。次は享保二十年(一七三五)の女性の死骸改証文の服装および所持品である。年齢は四五歳で木綿古はたこ一つ、木綿三つわり帯一筋、数珠、差櫛、古綿帽子、破れゆまき、木綿破れ風呂敷、以上である。風呂敷の中には木綿古袷・古前掛け・木綿古帯・田蓑がそれぞれ一つ入っていた(小島武郎家文書)。衣類に関しては触などに規定されている服装にほぼ近く質素なものである。
 年号はわからないが子供の例も一つあげると(清水征信家文書)、年齢は一〇歳で捨て子、木綿の古い浅黄色布子、木綿の古い単物、木綿の古い袷、帯も古い木綿製のものを締めている。衣類は色彩や種類は多様になるものの時代が下ってもそれほど大きな変化はなかったようである。最後に幕末の例を一つあげる。嘉永四年(一八五一)の男の溺死人の服装で、年齢は二五歳で木綿竪嶋単物、木綿小紋繻絆、木綿浅黄鉄砲袖、木綿紺帯を身につけている(山本晴幸家文書)。
 次に町人の衣類についてみていきたい。寛保二年(一七四二)小浜藩の西勢村に出された申渡しに、「惣而百姓与町人とは表裏之違有之、町人ハ万事人前をかさり見付ヲ宜致かけ、他国迄も名ヲ被知売買之手ヲ広ケ家ヲ起候様ニ致物ニ候故、衣服家居諸道具等迄も花麗ニ相嗜候ニ付」(岡善太夫家文書)とあり、町人は農民に比べれば家・衣類・道具ともに規制はゆるやかであった。しかし原則的には奢侈な物は避け粗服を用うべきものとされ、農民と同じく格式や分限に応じて望ましいとされる服装が厳然として存在した。
 文政十三年に大野藩が出した「倹約筋申渡覚」に御用達以上の町人は冬は木綿、夏向は帷子さらしで羽織は絹までは許すとある。なお、家内の女子は着物は絹・紬・晒まで、帯は金糸縫箔はだめだが縮緬・繻子までは許された。中以下の町人は冬は木綿、夏向は帷子半さらしで、羽織はハレの場のみ許可された。家内の女子は着物は紬・晒まで、帯は絹までなら許された。櫛・笄・簪についても金や銀の細工ものは禁止された(宮澤秀和家文書)。
 続いて天保十三年の敦賀における上級の町人と並の町人の服装および持物の例をあげる。町役人を勤める町人や諸役免許の特権を得ている町人の衣服は次のようであった。男は絹・紬まで、女も供連れの場合は許可するが、一人で外出するさいは絹は許されなかった。縮緬については男女とも許可されず、平日はできるだけ木綿を用いることとされた。帷子は越後縮までは許可された。帯については、男ははかた(博多)呉絽類まで、女は金入りはだめだが、黒繻子緞子糸錦までは許可された。平町人の場合は特別の場合でも上級の町人並の服装しか許されなかった。
 そのほか持物の例もすこしあげてみる。分限の町人の場合、傘は蛇目・渋蛇目で、色は紺・浅黄・白・鼠に限られた。下駄は塗下駄・塗木履までで、鼻緒は白の木綿とされた。草履は木綿の鼻緒の奈良草履、雪踏はばら詰(散緒)とされた。かんざしは真鍮・びいどろ・木・竹の塗物までは許可された。これらについては平町人も同様であった。
 なお武士については、家格に応じて当然のことながら差異があるものの、男は絹・紬、女も平生は絹・紬・木綿を着ることとされた。



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