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 第五章 宗教と文化
   第四節 文化の諸相
     五 食事・衣類・道具
      ハレの日と普段の日の食事
 食事に関する史料は大野郡を中心とした山間部に比較的多く残っている。ここでは江戸中期のものと思われる「家格代飯帳」(城地六右衛門家文書)により作成した表139・140をもとに、同じく大野郡の文政七年(一八二四)の「家来共食物并仕事留」(五畿屋家文書)なども参考にしながら、農民の食生活をみていきたい。

表139 城地六右衛門家にみるハレの日の食事

表139 城地六右衛門家にみるハレの日の食事
注) 「家各代飯帳」(城地六右衛門家文書)により作成.


表140 城地六右衛門家にみる日常の食事

表140  城地六右衛門家にみる日常の食事
注) 「家各代飯帳」(城地六右衛門家文書)により作成.

 最初にハレの日の食事として、正月・盆・祭礼日の献立をみてみる。当然のことながら、正月は一年のうちでも最も豪華な食事となっている。朝はやはり雑煮餅のところが多く、一般的に白・黍・粉餅など四、五個程度を食べ、さらに酒・魚が出されるところもある。今立郡東俣村では「正月朔日朝花ひら三枚・菱弐ツ、そう煮蕪也、昼めしなし、夕飯白飯、夜喰残り飯也」(「諸儀式覚帳」飯田廣助家文書 資6)とある。これに対して盆は食事に関する限り普段とそれほど大差はない。麦飯もしくは白飯を食べる点が多少異なる程度で、酒・魚が出されるところもあるがきわめて例外である。「農業日用記」(松田太郎左衛門家文書)には「十五日 朝めし麦、さいしひ二切、汁ぬか汁なすうけ……酒呑次第、昼ハ中わんなり……夕方麦めし、さいミそ、ぬか汁」とある。
 祭礼日の食事については祭礼そのものの性格により、また季節や地域の特殊性により違いが大きいと思われる。「諸儀式覚帳」の四月の稲荷祭の記事には「朝飯無シ、昼ハ盛飯ニ汁、かれ壱枚、晩ハ余り飯ニあとハ常之通り」とある。祭礼日といっても現在とは異なり食事にかんする限り酒を飲むこともなく、食物もつつましいものであった。
 祭礼日とまではいえないが、一年間の農作業のそれぞれの節目の日の食事も参考までに紹介しておきたい。文化十二年(一八一五)の「旧例記録日家栄(控)」(石倉家文書)のなかの大田植の日の食事は、「朝ハだんごみそ、昼は上白めし、さいあゑもの、きなこ、同夕めし下白米、なべこかし、さいにしめ」となっている。大田植に限らず農作業の節目の日の食事は、一般的には祭礼日よりもむしろ質量とも豊富であった。
 次に普段の日の食事についてみていきたい。日常の食事も季節に応じて多少変化があったようで、表140の冬の食事は野良仕事が始まるまでの、春は田植がほぼ終わる半夏生までの、夏は稲刈がほぼ終わる秋の彼岸までの食事内容である。彼岸過ぎの食事は冬の食事と春の食事をあわせたような食事だったと思われる。
 実際の食物は、朝晩とも黍餅三個とあるが、他の事例からすると醤油の粕などを添えて食べていたようである。にまぜというのは米に芋や大根の葉などを入れて炊いた雑炊のようなもので、ところによってはゾロなどといういい方をした。それを一人当たり米にして一食に二合程度食べた。めざい焼餅というのは、玄米を搗いた時に出る砕米(小米)やみよし(半熟米)を粉にして焼いたもので、男は三合から三合五勺(女はどの食事とも一合少ない)食べた。ものむし飯というのは交飯のことと思われ、ところにより違いがあるが、芋・大根・蕪・蕗などを入れて炊いた飯である。副食としては塩菜や糠味噌の汁がつき、塩菜は漬物のようなものでそれぞれ季節に応じた野菜が利用された。
 夏の盛りの労働は体力の消耗が激しいせいか、昼飯のみではあるが白飯を食べている。また、山仕事や肥出し・田掻き・田植など早朝からの仕事、もしくは肉体を酷使する労働に従事する時は、前昼・後昼といって昼食の前後に間食が出された。ただし、交飯・にぎり飯・めざい焼餅などが一、二個出される程度で、食物そのものは朝食・昼食と大差はなかった。
 山村においては贅沢な食物であったろうと思われる魚類は川魚類は別にして、鯖江藩の大庄屋であった五畿屋家では、正月一日・四日・十四日、二月三日、八月一日、十月晦日、十二月晦日の計七回出されている。また、酒は普通の農民にとってはせいぜい正月と盆に嗜む程度で、結婚  式や家普請など特別の行事日以外は口にすることはなかった。天保十一年の坂井郡の折戸村の村定(宮北巧家文書)の中には、村役人が寄合酒といって月三度ずつ酒を飲むことを許可するなどという例もあり、酒には制限が加えられていた。
 以上農民の食生活を中心に述べてきたが、従来から定着しているイメージとは多少異なり、毎日とはいかないまでも米を食べる機会も案外と多かったようである。季節と労働条件を上手に組み合わせながら、しかも男女の性差も加味して効率のよい食生活を送っていたようである。
 最後に町人の食事についても簡単に触れておきたい。勝山城下の松屋の天保十四年八月十日の毘沙門祭礼日の献立を見ると、「小豆飯、ずいき、豆腐汁、焼物鮎味噌焼、酒肴小鯛ニもやし素麺、三ばい漬その他有合」(「年中行司荒増留」)とある。ハレの日の食事をみる限り農村祭礼日の食事より品目は豊富である。
 また、大野城下の布川家では天明七年(一七八七)二月の仏供米を仏前に供える日は一〇日あった(「年中行事」)。仏供米はおそらく仏壇に供える仏飯のことであろうが、仏飯に限らず日常生活においても、普段から白飯を食べていたとみても間違いはないと思われる。それは日々の主食としての飯について一々白飯と記載せず、夕飯とあることからもうかがえる。また祭礼日には必ず酒の記述があり、酒につきものの肴も農村に比べより多くの種類の魚が記述されている。町人の食事は普段の日の食事といえども農村のハレの日に近い食事であったといってよい。



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