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 第五章 宗教と文化
   第四節 文化の諸相
     四 村と町の年中行事
      町の年中行事
 ここでは町独自の年中行事を取り上げたい。農村特有の行事を除いて、季節季節の節目を示す行事については、それほど大差はないと思われるので省略した。事例としては十七世紀の末から幕末までの町の様子がよくわかる、勝山町の一年の移り変りを中心にみていくことにする(表138 勝山町の年中行事)。あわせて小浜町の様子がよく知れる『拾椎雑話』の記事も交えてみていきたい。
写真202 左儀長馬威し図(『越前国名蹟考』)

写真202 左儀長馬威し図(『越前国名蹟考』)

 町の一年は元旦に町年寄一同が家中役宅への年始廻りをすることから始まる。四日は草分け町人や大庄屋、および町内の寺院の住職が城内御勝手台所之間で、森甚左衛門など町内の重立った町人、町庄屋三人は御鉄砲之間で藩主に年頭の礼を申し上げた。六日は仕事始めの日で、町年寄三人・町庄屋三人の町六役と、御札所元締さらには大庄屋も会所に集まり初顔合せをした。その後は酒を飲み、奉行の家へ揃って年始に出かけた。十二日はその返礼として奉行等が安田十兵衛など草分けの町人宅を年始廻りに歩いた。
 十四日からは恒例の左儀長で、袋田・後・郡の三町ともに櫓を建て、翌日の早朝から太鼓・三味線・笛で各櫓とも競うように囃したてた。時には子供櫓も建てられ郡内各地からの見物客で賑わった。この日は下目付衆も見廻りと称して見物に繰り出し、町では酒を出してもてなした。小浜でも子供の左儀長が盛んだったようで、欠脇の門外でどんどを焼いた後、太鼓・鉦をたたきながら「狩やれやれ、狐の鮨は七桶ながら、八桶に足らぬとて狩るや」と囃したてながら町内を廻った。
 二月十二日は訴訟裁判に関する入用などを割り当てる三町公事割の日で、年末の町内諸雑用の会計監査である大割・内割の日と同様に六役が立ち会った。二月二十二日は勝山町と若猪野・畔川など六か村が、九頭竜川から引いた共有の用水である立会用水を、春の農作業を控え、破損状態などを見て廻った。九頭竜川は越前きっての暴れ川であるため、見分や普請は定例以外にも何度か行われた。六月の九頭竜河畔の下河原の見分には藩の役人も加わった。二月も末になると春一番も吹き始め、火災の最も多い時期となり藩からも見廻りが出されたが、各町内でも夜ごと見廻った。どの城下も幾度かの大火の経験から町の所々に防火桶を設置するなど火災防止にはことのほか気を配った。勝山町の場合二月の夜廻り、三月十三日の火消割人別調、後年の火消勢揃(はしりやんこ)も防火の一環として行われた。二十四日は烏帽子着祝といって今の成人式に当たる行事で、町全体で祝っていることが注目される。
 三月に入り三日は上巳の節句で、いわゆる五節句には六役が揃って家中役宅を御礼廻りするのが恒例であった。薬師祭から始まって天満宮の祭礼まで、三月は城下の各寺社の春祭が連日のごとく行われた。湯花にも六役が揃って参拝するのが恒例で、とくに八幡宮の祭礼と天満宮の祭礼には藩主も参拝し、当日と前日の二夜は終夜の提灯が許された。
 三月末から四月の初めにかけては宗門改が毎年行われた。勝山藩では三年に一度は大がかりに行われた。城下の寺はもちろん遠くは福井の旦那寺もすべて集められ、藩の役人も立ち会って一日で行われた。四月三日の竃改は小物成を賦課するため行われたものであろう。四月九日は郡中の寄合が行われ、この日は大野郡内でも北袋地域の村々が共通に利用する九頭竜川の鵜之嶋や、小舟渡の渡船の雑用割などについて話し合った。十日は山の口明けを控えての勝山町有の奥山の見廻りで、関係する村々が除中に設けられた各休場(休憩場所)に出迎えて町役たちを接待した。五月に入り中旬頃には毎年伊勢神楽が町内各家を廻り伊勢宮への奉納と称して米銭を集め歩いた。
 六月十八日は平泉寺の祭礼で郡内各地から多くの参拝者が詰めかけ毎年大変な賑わいをみせた。土用に入った頃には暑中御機嫌伺といって、町役たちは十二月の寒気御機嫌伺とともに城および家中役宅を廻った。盆のあいだ三日間は各家ともに終夜提灯が許され、墓参りや寺参りをした。小浜では、十四日に精霊の迎え火といって、暮時家の門前で麻木を焼き家主が出て読経した。また、盆踊が盛んで年々衣裳が華やかになったため、一時禁止されたこともあったが子供踊だけは許された。
 顕如講は平泉寺焼亡後、この地域の一向衆門徒の願いにより顕如自作の木像が惣坊の尊光寺に下付され、毎年七月二十三日に開扉されたことに始まる。この日も郡内各地からの参詣者で賑わった。八月に入ると四月と同じように城下の各寺社は秋祭で賑わう。十四日から十五日にかけて行われた八幡宮・神明宮の祭礼は、一年のうちで最も華やかであった。町役六人と家老も出席しての湯花が終わると町は祭一色におおわれる。神明境内では数日前より各地から集められていた相撲取により御前相撲が大がかりに行われた。これは町行事として行われ、家中のおもだった武士はもちろん時には藩主の見物もあり、翌日には勝敗番付表が家老宅に届けられた。見せ物も出て、夜に入ると三味線・太鼓の囃しつきで踊が始まり、若殿・姫君が見物することもあった。
 三町の寄合はその都度開かれ、必要に応じて庄屋ないしは年寄が出席した。十月二十日は雪の季節を迎える準備として雪割・雪踏・城中雪掻などの人足割などについて話し合った。晦日には毎年福井藩および本保役所へ勝山米の上中下の米の値段を書いて届けた。十一月下旬にもなると本格的に雪が降り出し、夜道が危ないのでこの期間だけは提灯が許された。十二月の大晦日は六役揃っての最後の家中役宅廻りで、翌年の元旦および四日の登城の打合せなどを済まし、御用納めを行って町の一年が終った。



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