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 第五章 宗教と文化
   第四節 文化の諸相
     三 神祇信仰と修験道
      山伏の活動
 江戸幕府は慶長十八年「修験道法度」によって、修験者(山伏)を聖護院を本寺とする本山派か、三宝院を本寺とする当山派かいずれかに所属させた。越前では当山派の勢力が強く、福井の梅本院が越前の触頭の地位を占めていた(土蔵市右衛門家文書)。また、山伏は各地を遊行することが禁止され、地域への定着が図られた結果いずれかの寺の檀那になった。
 山伏は大きくは町方の山伏と里方の山伏に分けられるが、里方にはよほどの大村でない限り一戸を構えるような山伏はいなかった。『拾椎雑話』の寛永十七年の「小浜町家職分ケ」には山伏四二人とみえ、敦賀町では「指掌録」の享保十一年(一七二六)の「宗門改人高寄セ」に一二人とある。大野町では岩本院・福蔵院・福昌院など当山派の寺院が多く、岩本院は大野藩の袈裟頭を勤めていた。
 山伏は氏神祭礼のさいの祈外字・家普請・疫病除去・盗賊除・安産・雨乞などの祈願を通じて、庶民の生活に深くかかわっていた。例えば嘉永三年六月九日、野尻家では屋敷内に鎮守の稲荷を祭っており、内殿が完成したので大野町吉祥院の山伏を呼んで遷宮の儀式を行い、夜はせがれ佐太郎の三歳の髪直しの儀式もあわせて行った(野尻源右衛門家文書)。福井藩でも寛永六年正月二十八日に、山伏に御城火伏の祈外字を行わせている(「家譜」)。
 山伏には勧進場があった。寛保三年(一七四三)五月、勝山の不動院のせがれが金津近辺で勧進していたところ、番田村の倉本院から邪魔が入るという事件があった(勝山市教育委員会保管文書)。また嘉永四年の福井の威宝院から松丸村への申達しに、「追付麦時ニ相成候ヘ者、他所山伏相廻り候共勧進出不申候様例年之通村中江御申渡」(松丸区有文書)といった史料もあり、これらのことからうかがわれるように、山伏は自分の勧進場を定期的に勧進するのはもちろんのこと、各地を勧進して歩いていたようである。
 村々を廻ったのは山伏ばかりでなく、伊勢御師・虚無僧・瞽女などもいた。なかでも伊勢御師は全国各地に檀那場をもっており、毎年秋から冬にかけて引受人を派遣して檀那場内の町や村々を廻らせた。彼等は庄屋の家などを常宿にして、家々に「大麻」(御札)や「伊勢暦」、そのほか扇や白粉などの土産物を配って歩いた。
写真199 伊勢暦

写真199 伊勢暦


表136 慶応3年(1867)越前・若狭の大名家御師

表136  慶応3年(1867)越前・若狭の大名家御師
 注) 「公儀諸大名江両宮御祓納候御
    師附」(神宮御師資料)により作成.

 その代りに初穂料として米や銭などを集めて廻った。一村全体が一人の御師の檀那場の場合もあったが、町方は数人の御師により分割されていることが多かった。また各大名にも内宮・外宮双方の専属の御師がいた(表136)。閉鎖的にみえる村々にもこのように色々な人たちが訪れ各種の情報をもたらした。



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