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 第五章 宗教と文化
   第四節 文化の諸相
     三 神祇信仰と修験道
      白山信仰
 日本では古来より山岳は神霊が篭る聖地であるとして信仰する風習があった。平安中期以降になると、道教や仏教なかでも密教の影響を強く受けて、修験道と呼ばれる独特の宗教体系がつくられた。初めは熊野・吉野山などがその拠点であった。そして山岳での修業によって験力を会得した密教の験者を修験者と呼ぶようになった。
 その後羽黒山・日光・白山・伯耆大山・彦山なども修験の霊場として盛んになった。越前ではやはり白山で修業したと伝える泰澄の影響が強く、白山信仰は平安末期以降広まっていった。白山信仰が高まるにつれ登拝者が増え、その登山道を禅定道、集合場所を馬場といい、加賀・美濃・越前の三つの禅定道と馬場が成立した。越前馬場の中心は白山中宮で、平泉寺が平安時代からその拠点となった。その後、平泉寺は天正二年(一五七四)の一向一揆で焼亡し一時衰退した(『通史編1・2』)。
写真198 白山本道図(『越前国名蹟考』)

写真198 白山本道図(『越前国名蹟考』)

 しかし、天正十三年に金森長近が別山に社殿を建立したので、かつての白山禅定道も徐々に再興され、また顕海が賢聖院(玄成院  )を中心に平泉寺の復興も進めた。さらに江戸時代に入り顕海の弟子専海の住持時代には福井藩の手厚い保護を受けるようになった。慶長六年(一六〇一)に結城秀康より二〇〇石が賢聖院に寄進され(白山神社文書 資7)、さらに寛永三年(一六二六)には松平忠昌より改めて吉田郡野中村に一〇〇石が寄進された。寛永七年には勝山藩主松平直基も三〇石を寄進した。寺領とともに門前百姓二一軒も設定した(原藤右衛門家文書)。
 延宝八年(一六八〇)の「白山禅定御建立次第」(『平泉寺文書』)によると、先述した金森長近の寄進に始まり、寛文二年(一六六二)の三所宮建立など白山山上の堂社の再建も次第に進んだようである。そのさい、平泉寺は供養導師を勤めるなど、江戸時代においても白山修験の中心の位置を占めた。
 白山修験の内容を寛永八年の「平泉寺一山僧俗心得書」一九か条からおもなものを列挙してみると、
 (1)毎朝必ず天下安全の勤行を行う。
 (2)毎月一日・十五日の両日は全僧惣出で社参する。
 (3)毎月十七日開山堂逮夜には全僧出席し読経する。
 (4)朝夕の護摩堂での護摩供・御本地供は学頭および衆徒が順番に行う。
とあり、このほか夏の間に限り、衆徒のなかには白山の越前室に篭る者もいた。先述したように、白山への登山道は白山禅定道といい三つの道があった。越前側からは、初め平泉寺から三頭山・法恩寺山を越える道を通ったが、次第に小原村  を通る道に変っていった。牛首・風嵐の二村は参銭・初穂銭と称して白山に参詣する人から銭二〇〇文を徴収した。
 平泉寺はまた、毎年正月に勝山街道沿いの野中村などから人足を徴発し、福井城下に出かけ、十六日より十八日まで、城内本丸で天下泰平・国郡安全の祈願のため、護摩供の祈外字を行うことを恒例とした。なお中宮平泉寺に対する本寺本宮とされる越知社も、十八日に同じく城内で大般若を唱えた。



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