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 第五章 宗教と文化
   第四節 文化の諸相
     三 神祇信仰と修験道
      神社と庶民
 近世の神社には、敦賀の気比社のように黒印地を与えられたような神社や、今立四八か村の総社の地位を占めた稲荷村の須波阿須疑社(稲荷社)のような大社も一部ある。しかし大部分の神社は、寺院や僧侶が管理するかもしくは一村ないし数村が共有し、管理は氏子が行うものが多かった。したがって、祭礼時には他社の神主や山伏に委託したり、氏子が交代で神主を勤めたりした。
 小村のなかには社や祠がないところもあったが、ほとんどの村には氏神や村の産土神を祭った社や祠があり、例年春と秋の二回、日を決め村をあげて収穫を祈りまた祝う祭礼を行った。今立郡大屋村の賀茂白山宮の一年は次のようになっている(藤井好宣家文書)。元旦には神主が五人の年寄とともに、武運長久・五穀成就・産子安全の祈願を行う。その後で産子一同に大麻清めの儀式などを行う。三月三日には、鏑矢を射て邪を払う蟇目の神事が正月と同様五人の年寄の立会いのもとに行われる。九月四・五日は恒例の祭で、四日の儀式はほぼ正月と同じだが、五日にはすべての氏子が参拝し神主からお祓を受け、続いて湯立の神事が行われた。
 明治十二年(一八七九)に作成された「神社明細帳」をもとに、越前・若狭における氏神の分布状況をみてみると次のようなことがいえる。ただし神社整理が行われているので、江戸時代の状況をそのまま反映しているわけではない。
 越前は加賀とならんで白山信仰の本場であるだけに白山神が多いが、しかし一方ではそれと同じくらい八幡神もみられる。ただし地域的には偏在しており、白山は大野郡で、八幡は坂井郡で約四分の一を占めている。神明は各郡にまんべんなく分布している。坂井郡には春日も多いが、これは春日社が本来藤原氏の氏神であり、河口庄も同じく氏寺である興福寺の寺領であった関係であろう。続いて山王・天満などが続くが、これらの神々は著名な社から勧請されたものであろう。
 越前では二、三の氏神を祭る村が多い。宝永四年(一七〇七)の今立郡安善寺村の例では、「社弐ケ所 八幡弐間壱丈 八幡祭礼八月十五日十六日、古稲荷神木斗」とある(「池田郷村々明細帳」岡文雄家文書)。それに対して若狭では一〇近くの氏神を祭る村もあった。元禄三年(一六九〇)の堅海村の例では、宮として、「久須夜大明神・山王・牛頭天王・天神・白山権現・山ノ神」とあり、そのほか堂三軒として「観音・阿弥陀二」(「下中郡村鑑」小林孫助家文書)とある。
 江戸時代の庶民は寺も含めて近辺の神社にはことあるごとに参拝していた。野尻源右衛門家の嘉永四年(一八五一)三月十七日の日記中に、「清滝大権現・鍬懸洪泉寺地蔵尊菩薩・同村庵観世音菩薩・飯降白山大権現・深井村子安観世音菩薩・黒谷観音菩薩・篠座神社大明神・熊野山大権現以上八所御開帳貴賤参拝」とあり家族も揃って参拝したと記してある。同五年八月二十二日には一泊二日で道元禅師六百回忌に当主・妻・せがれ三人で永平寺に出かけている。 写真197 山の神像

写真197 山の神像

 『越前国名蹟考』の足羽郡(下)の項には「六十六所観世音順礼」として、一番鎮徳寺から六十六番松尾寺までがあげられている。そのほか二十八所地蔵巡なども見える。若狭の例として、大飯郡高浜村の真言宗中山寺の安政三年(一八五六)の史料には、諸国からの巡礼者に混じって越前・若狭の巡礼者も見える(「諸国巡礼納経請留書」)。



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