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 第五章 宗教と文化
   第四節 文化の諸相
    二 町人の娯楽
      町人の遊芸
 町人の遊芸としては、茶道・華道・能・浄瑠璃などの芸事と、和歌・連歌・俳諧などの文芸があり、そのほか囲碁・将棋なども諸芸の一つとしてあげられよう。
 まず、十五世紀中ごろ池坊専慶によって始められた立花、華道を例として取り上げることにする。池坊流立花は江戸初期には豪華な作風を完成し、十七世紀後半には全国に門弟をもった。家元の「永代門弟帳」によると、門弟名はもちろん生国や取次人に至るまで知ることができる。後掲表135は、延宝六年(一六七八)から元文四年(一七三九)まで六〇数年分の門弟帳から、越前分の門弟を抜き出したものである。この時期の帳面には若狭出身者は見られないが、全門弟六六二人中の一七人が越前出身である。武士が二人、僧侶と思われる人物が六人、残る九人は町人であろう。九人のうち鰐屋太右衛門が福井出身であるほかはすべて敦賀の町人である。

表135 越前における池坊門弟

表135  越前における池坊門弟
注) 守屋毅「永代門弟帳」(『芸能史研究』63・64号)により作成.

 敦賀は京都・大坂に近く、天正期(一五七三〜九二)以降は道川・打它・高嶋屋などの初期豪商が敦賀を拠点に諸大名と結び活躍していた。なかでも打它氏は京都に店を持ち、その地の芸能者とも交流があり、一族の中には歌人としてもよく知られた人物も出た。
 十七世紀後半の敦賀町の繁栄する状況を伝える史料として、「寛文雑記」や「遠目鏡」などがある。芸能の盛んな様子は、「遠目鏡」の芸者付の項に、立花としては本光坊・無量寺などの名がみえ、そのほかにも歌学者・俳諧師・好寄者・鞠・庭作りなどの項目および人名が多数あげられていることからもうかがえる。
 当時の敦賀がもっていた経済力と、都との文化的交流が敦賀の文化的地位を高めたものと思われるが、また一方で、文化の地方への広がりの一端を知ることもできる。ところで、今庄町湯尾の山口武助家には貞享元年(一六八四)の「立華正道集」が残されていて、地方文化の向上は敦賀のような大きな町だけの現象ではなかったことが知られる。その背景には門弟グループが核となって文化サロン的なものを形成しながら、一方で地域の指導者として、中央の諸芸能を地方に育ませるという下地があったからである。
 しかし一方で、京都や江戸から下ってきた能楽師・俳諧師などが藩のお抱えとなり、あるいは地元に住み着くことによって各種の芸事を広めていくこともあった。なかでも酒井氏の城下町小浜にはそうした多くの人たちが往んでいた。以下『拾椎雑話』の記事から、小浜町を中心に町人の習い事の有様をみていきたい。
 早くも寛永期(一六二四〜四四)から寛文期(一六六一〜七三)にかけ、池坊門弟として小物屋源右衛門、茶道では長井孫左衛門・井筒屋久右衛門、和歌では木崎甚右衛門が知られる。とくに和歌は延宝期に医師山本玄広が仕官してから町人のあいだに広まっていった。連歌は慶安期(一六四八〜五二)に升屋又兵衛を中心に盛んであったが、享保期(一七一六〜三六)に里村昌迪が小浜に来てからはますます流行した。俳諧は延宝期に京都から点者がしばしば訪れ盛んになった。貞享期には津田依旧等によって若狭千句が詠まれ、元禄十六年(一七〇三)には天満宮奉納俳諧一万句の発起があり、翌年には成就するほどに盛んになった。すでに松尾芭蕉も越前を訪れており、越前・若狭を問わず町々で俳諧熱は高まりつつあった。
 次いで芸事の例として、乱舞芸があげられる。享保期に上方から浄瑠璃の達人がたびたび訪れるに及んで、小浜町人のあいだでは一節うならない人はいないほどの盛況となった。能は酒井忠勝が京都から能楽者寺井清兵衛、江戸より囃方狂言師ワキ師梶木庄兵衛等を招き、猿楽一座の倉座のものはもちろん、町人のなかにも習うものが出るほどであった。また古くから囲碁が盛んで、貞享・元禄の頃には小島源太夫等多数の上手がいた。それ以降もたくさんの上手が出、他国からも多数の強豪が訪れた。諸藩士をはじめ、町在を問わず我こそはと思うものは遠近をいとわず町にやってきて対局した。そのほか、将棋や尺八など、それぞれ趣味に応じ町人たちは余暇を利用して娯楽を見いだした。
 天保九年(一八三八)巡見使一行が、敦賀町を通行するさい町方に出された達しに、「御とうりう中、まい(舞)うたい(謡)けいこ(稽古)ちうや(昼夜)ともおうらい(往来)のもの、おんぎよく(音曲)やめもうすべく候、……こと(琴)・さみせん(三味線)・なりもの(鳴物)むよう(無用)ニいたすべく候」(浅井善太郎家文書)とある。稽古ごとの盛んな有様がよくうかがえる。



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