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 第五章 宗教と文化
   第四節 文化の諸相
    一 幸若舞・舞々・越前万歳
      越前万歳―伝承から歴史へ
 近世以降の各地の万歳は、一部のみ残された京都と大和万歳は中世からの伝統を受け継ぐものであったが、尾張万歳を除くほとんどのものは三河万歳の系譜を引くものである。そのなかで越前万歳のみが系譜不明である。笠嶋怜史は古い万歳系の「家建て」を含む各地の詞章(越前では「舞込お家万歳」)の詳細な比較を通して、越前万歳は後に三河の影響を受けるものの、大和や尾張等の影響を受けて、近世以前にすでに存在していた、と結論付けている。
 『今立郡誌』に載せられた「由緒書」には次のような伝説がある。
 味真野辺にいた使主智は馬飼部であった。皇子の馬が病気になった時、馬の前で「宇津保之舞」をしたところ馬は元気になった。それより「宇津保万歳」の称号を賜り、廏の祈外字を行うようになった。また天鈿女命を産土神として祀り、初春の天皇初乗式に天鈿女命の仮面を付けて舞う。後に源頼朝に召され「野宇津保証文士」として万歳を舞うことを許された。
 この記事に注目した柳田國男は、宇津保舞は靫舞のことで、馬屋の祈外字を目的とした猿の舞で、猿舞と万歳と声聞師とは相互に関係があるとした。
 野大坪の名がウツボから出たというのは識者のさかしらなこじつけのような気もするが、越前万歳が声聞師(右では「証文士」)の祝福芸能の一つであり、彼等が馬屋祈外字もしていたというのはありそうなことである。しかしこの地に声聞師がいたことを示す資料はほかにない。
越前万歳のことがはっきりするのは江戸中期以降である。坂井郡三国町滝谷寺の正徳二年(一七一二)の万歳絵馬には、正月の家を訪れる太夫と才蔵と供の者が描かれている。『三州奇談』には天明三年(一七八三)以前金沢で越前万歳が行われていたことが記されている。十九世紀なかばに入ると越前側の資料が次々と現れる。このように、越前万歳は他の地方の万歳より古い伝統をもつものであるらしいが、資料的に制約があり、その歴史をたどることがむつかしい。近代に入って昭和六年(一九三一)の「野大坪万歳復興会事件」によって、それまで残されていた資料も多くは失われてしまったらしい。 写真195 越前萬歳之図(『越前萬歳考』)

写真195 越前萬歳之図(『越前萬歳考』)



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