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 第五章 宗教と文化
   第四節 文化の諸相
    一 幸若舞・舞々・越前万歳
      万歳の歴史
 万歳の歴史について、山路興造は次のようにまとめている。新春(初子・初卯の日)に、小松や卯杖を持って演じられる祝福芸としての千秋万歳は、十一世紀から十二世紀にはすでに存在していた。南北朝期以前における千秋万歳の演者は専業的芸能者ではなく、キヨメを職掌として社寺や権門に所属した散所の法師たちで、言葉による呪術をもって年の始めに行う呪芸であった。鎌倉末期から南北朝にかけて起った社会基盤の大きな変動によって、キヨメとしての職能者が権門の庇護を離れ、特定の地に集住するようになると、千秋万歳はそれらのなかの一部の者たちに継承され、町民や郷村民などをも相手に含みこんで、生活の場を確立していった。彼等は当時流行していた曲舞を自己の芸能に取り込むことにより、千秋万歳がもつ季節的制約から脱却を図ったばかりでなく、普段は、彼等本来の職能であるキヨメとしての呪能的能力を生かして、陰陽師としての生活を営んでいたが、近畿地方においては彼等は声聞師(唱門師)と呼ばれていた。文禄三年(一五九四)三月、秀吉は京の陰陽師一〇九人をはじめ、堺・大坂の者を含めて一二七人の陰陽師を、尾張国春日井郡清洲付近の荒地開墾のため、強制移住させた。彼等の一部は後に京へ帰ったが、一部は近くの陰陽師村に身を寄せたらしい。尾張万歳・三河万歳の成立には、この事件が大きな関係をもっている。江戸時代に入ると三河の陰陽師(声聞師)たちは、かつての旦那であった三河武士を頼って江戸へ進出することになり、それが各地の万歳へと受け継がれ、尾張万歳は伊勢・紀伊・遠江・木曽などを廻った。こうして近世万歳が成立する。
 以上、山路の論を要約するかたちで、江戸期までの万歳の歴史を概観した。



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