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 第五章 宗教と文化
   第四節 文化の諸相
    一 幸若舞・舞々・越前万歳
      敦賀の幸若・若狭の舞々
 天正六年(一五七八)七月二十日付『家忠日記』には、敦賀に幸鶴太夫という舞々がいたことが記されている。この系譜を引くものかどうか不明であるが、諸鶴越中という舞太夫がおり、一〇〇石の知行地があった。諸鶴家の長次郎が承応元年に死に、跡が絶えたので、酒井忠勝の預りとなり、家光・家綱とのつながりから、万治三年(一六六〇)小八郎虚白の子久次郎が跡を継いだ。これが五郎右衛門家の始まりである(「指掌録」)。諸鶴の知行地は陰陽師たちが住む陰内と呼ばれた所だが、幸若移住後、田嶋村と改められた。この諸鶴太夫の知行地は、年号の記載には疑問が残るが、慶長三年(一五九八)の日付をもつ、「越前国郷帳」(高嶋文庫)および正保三年(一六四六)の「正保郷帳」にも一〇〇石とある。敦賀にはほかに「舞々柳太夫」もいたが、その実態はわからない(「遠目鏡」)。
 若狭の曲舞の記録は『蔭凉軒日録』延徳三年(一四九一)六月二十日の「若州九世舞」とあるのが最も古く、その他、慶長年間高浜には幸菊等の舞々が(高浜妙光寺文書 資9)、遠敷には幸福座舞々がいた(『拾椎雑話』)。京極氏時代には舞がはやり、京極家が丸亀に移ってからは、東宮前町の舞権兵衛というものが折々丸亀に通っていたともいう(同前)。酒井忠勝は、寛永十一年十二月、幸福太夫のせがれの舞修得について便宜を与えようとしていたし(「酒井忠勝書下」)、忠勝・忠隆は舞を好んだというから(ただし、これは敦賀の幸若をも含んでいるのかもしれない)、この頃までには彼等も舞を舞っていたことが確認できるが、その後は陰陽師・かまどばらい・梓巫女を業とするようになった。



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