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 第五章 宗教と文化
   第四節 文化の諸相
    一 幸若舞・舞々・越前万歳
      幸若の知行地
 江戸初期において、幸若舞がすでに現代風のものではなくなっていたことは、『厳有院殿御実紀』に「古雅のものにして」とあることによっても確かめられる。将軍や大名たちの個人的興味に支えられて高い地位を獲得した幸若は、時代に即応しなくなったこと、その格式の高さゆえに一般の人々の前で上演しなくなったこと、猿楽のように式楽として整っていなかったことなどの理由により、急速に芸能としての意味を失った。しかし戦国の気風が残っていた江戸初期には、幸若舞は大名たちからも愛好された。毛利家のことは『通史編2』第六章第三節に触れた。彦右衛門宗信が福井松平家から寛永七年に二〇〇石、庄兵衛正信・長氏が紀州家から寛永十六年に三〇〇石、同十八年風雪が水谷伊勢守から一五〇石、それぞれ与えられたという(「長明書留」)。水戸では幸若六兵衛・九郎左衛門がそれぞれ一五〇石であった(「寛文規式帳」『茨城県史料近世政治編』)。また前田利常の夜伽をした幸若九左衛門・小四郎父子もいた(『微妙公御直言』)。
 越前における幸若領は、諸種の高帳などによれば、一一七五石とされる。時代による増減はあるが、江戸期はほぼこの水準を維持した。おもなものは表134に示したが、八郎九郎家・小八郎家・弥次郎家の朝日村・西田中村を中心に、伊右衛門家の天屋村・木津見村・宝泉寺村(これらは天王村の枝村で、天王川の左岸、北東部、天夜・木積とも書く)、また小八郎家の分家五郎右衛門家の敦賀などがその知行地であった。幸若家の生活はかなり裕福なものであったらしく、朝日観音や菩提寺の竜生寺(もと佐々生村にあったが、明治になってから現在の西田中に移った)には幸若家の寄進になるものが多く残されている。しかし幕末には生活に困窮し、借金の証文が残されてもいる。

表134 幸若家の知行

表134  幸若家の知行
  注1 知行高合計は,石未満を四捨五入した.
  注2 *は100石を,**は村名および高を補った.



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