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 第五章 宗教と文化
   第四節 文化の諸相
    一 幸若舞・舞々・越前万歳
      幸若音曲
 幸若舞は曲舞の一派であり、曲舞は見るものであり、かつ聞くものでもあった。舞とはいえ、特別な所作があるわけでもなく、比較的単純な動作を繰り返し、長い物語を語ってゆくものである。室町・戦国時代には、児や女性が舞うことがあったから、それはそれなりにあでやかなものであったろうし、初期の幸若舞は、例えば『管見記』の嘉吉二年(一四四二)五月八日に「音曲舞姿尤も感激有り」と記されるように、人々を魅了する舞であった。しかし名人といわれたような小八郎吉信・同安信の頃から、聞くことが中心になっていたようだ。それでも『実紀』には、家綱の時代までは「幸若舞御覧」と記されている。綱吉時代に入ると、前述したように幸若舞の記事は少なくなるのだが、元禄二年(一六八九)五月三十日「幸若の輩舞曲御覧」とあったものが、宝永二年(一七〇五)二月二十五日「幸若音曲聞し召さる」となる。その後、家宣の宝永六年十月一日「舞御覧あり」とあるのを最後に、『実紀』から「御覧」の言葉は消える。宝永七年五月七日には「敦盛」「鞍馬出」「日本紀」などの曲名が記されているのに「幸若の謡物を聞し召さる」とあり、以下「音曲御聴聞」「音曲を命ぜられる」のように、幸若舞は聞くものとして意識されるようになってゆく。『甲子夜話続篇』には寛政某年十月二十八日に幸若音曲を聞いたことを記し、「正座して扇を持て拍子をうつ、節甚だ簡也、謡にしきり有りて、一段づゝ手をさげて歌ひ、末に及ぶと、扇を出し、膝上にて拍子をうつ、この如く度々にす」と、その具体的な様子を述べている。これはもはや舞ではない。
 上演回数の減少とともに内容的にも、綱吉時代が幸若舞にとっての転換点であった。
写真194 幸若一族墓

写真194 幸若一族墓




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