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 第五章 宗教と文化
   第四節 文化の諸相
    一 幸若舞・舞々・越前万歳
      将軍の舞御覧
 江戸時代の猿楽(能楽)世界は、徳川吉宗が八代将軍となった享保元年(一七一六)以後と、それ以前に分けて考えられ、吉宗以前は式楽であったとはいえ、将軍の個人的好みに大きく左右された。幸若舞もまた同じく、あるいはそれ以上に、将軍の好みに搖れた。
 江戸期の幸若舞の実態については不明な点が多い。信長以来の伝統を受け、幕府から所領を与えられた幸若家は、将軍の舞御覧に奉仕することを第一とし、その他諸大名はもちろん、一般庶民の前でも上演することがまれになり、史料としては「幕府日記」や『徳川実紀』『続徳川実紀』に頼るしかない。しかし「幕府日記」はいまだその全容が紹介されてはおらず、また『実紀』にはすべての幸若舞御覧が記されているわけではないし、それぞれの将軍実紀によって編集態度が微妙に異なり、繁閑様々である。そうした史料的制約を受けながら、以下に『実紀』を中心として、将軍の舞御覧について述べてみる。
 家康が幸若舞を愛好したことは『家忠日記』に多くの記事があることによってわかる。家康は越前幸若のみではなく、三河国の東条・桜井などの舞々たちの舞をもしばしば見ているし、大御所となった後も駿府で幸若舞を見ている。二代秀忠について、『実紀』には見られないが、諸種の幸若系図・書上類には、八郎九郎重信・小八郎吉信・同安信が仕え、秀忠は自ら謡ったほどの幸若好きであったという。三代家光・四代家綱は『実紀』に多くの舞御覧が記されている。とくに家綱は一五人の将軍のなかで、最も記事が多い。『実紀』には、家綱は猿楽よりも幸若や平家琵琶を好んだ、と書かれている。五代綱吉は有名な猿楽狂いであった。自ら演ずるのみではなく、諸大名やお側のものにまで猿楽を学ばせ、また猿楽のものを引き立てたりした。廃曲を復活上演するなどの、現代にまで与えた影響は大きなものがあるが、そうじて猿楽界が混乱したことはいなめない。幸若舞御覧の記事は、家綱の時代に比べると、極端に少ない。これ以後、『実紀』には慶応二年(一八六六)十二月四日まで、幸若舞・幸若に関する記事が断続的に見られはするものの、かつてのようなことはなくなった。
 家光・家綱の幸若舞御覧の記事で興味深いのは、将軍が舞を見る時間に「夜中・此夜」とあるのが多いことである。これは将軍の個人的な時間に、自分の趣味で見ていることを示すものであろう。猿楽にも奥能という形があるが、それでもこれは幸若舞に比べれば大がかりなものである。幸若舞は将軍としての仕事が終わった後で、寝所近くで行われるものであった。それだけに将軍に近かったのであるが、逆に将軍が代って、その将軍の興味が薄れると舞御覧の機会がとたんに減ることになる。猿楽は室町幕府以来の伝統を受けて、式楽としての形が整っていた。正月二日(承応三年・〈一六五四〉以降は三日)には必ず「謡い始め」があり、その他、饗応猿楽・祝儀猿楽といった公式行事としてしっかりとその根をおろしていた。幸若舞にはこうした祝儀幸若舞のようなものは、『実紀』には寛永十二年(一六三五)八月三日、安宅丸船中で猿楽とともに行われたもの以外は記されておらず、事実そのようなことはなかったのであろう。猿楽と幸若舞とは、江戸城における上演のされ方、その意味が異なっていたのである(表133)。

表133 『徳川実紀』における幸若舞記事

表133  『徳川実紀』における幸若舞記事



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