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 第五章 宗教と文化
   第三節 学問と文芸
    四 芭蕉の足跡
      越前の俳諧
 芭蕉以前の越前を代表する俳諧師として、敦賀の本勝寺十三代住職の日能がよく知られている。日能は松永貞徳のひらいた貞門の重鎮で、彼により敦賀を中心に俳諧熱は徐々に高まっていった。次いで敦賀に生まれ、のち貞門三代「花の本」を継いだ乾貞恕がいる。彼は「新玉海集」などの著述を残し、元禄十五年に没している。柴垣卜琴は一時府中(武生)に住んだことがあり、延宝五年(一六七七)に編纂した「玉江草」には近辺農民や町民の作者の作品が多数採用され、彼の影響力の大きさが知れる。
 「炭俵」を編集した野玻は福井出身で、芭蕉亡きあと大坂を中心に活動したが、越前とのつながりはほとんどなかった。これに対し越前を含め北陸一帯に大きな影響力をもったのは各務支考である。支考は芭蕉晩年の弟子で、元禄十四年に初めて北陸を訪れた。以後も何度かこの地を旅し多くの門人を獲得していった。支考が美濃出身であったことからこれらの門人を美濃派と称した。越前では江戸時代を通じて美濃派の影響力が強く、三国の昨嚢、福井の韋吹、府中の嵐枝が地域の指導者として知られている。
 なお越前には芭蕉塚と呼ばれるものが多数あり、その一つに金ケ崎の金前寺境内には宝暦十一年(一七六一)に建てられた鐘塚がある。



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