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 第五章 宗教と文化
   第三節 学問と文芸
    三 史書・地誌の編纂
      若狭の地誌
 小浜藩による地誌の編纂は、二代藩主忠直が儒者千賀玉斎に「若狭風土記」の編纂を命じたことに始まる(「賀璋小石碑誌」)。しかし、玉斎は、事半ばにして天和二年(一六八二)に死去した。この玉斎の仕事を門友が後年にまとめたのが「若耶群談」である。内容は、残された諸本によって出入がみられるが、名所・管郡石高・名産名器・神社・寺院・領主・城主・付録である。これにさきだち、玉斎は、寛文十一年に小浜藩滞在中および道中に書き留めた紀行文「向若録」三巻を著している。この書の上巻は江戸から小浜までの旅の記録であり、中巻は小浜城にはじまり名所・寺社・山川・村里など小浜で見聞したことを書き留め、下巻はおもに敦賀往復の旅の記録である。全文漢文であるが、その内容は、のちに成立する若狭の地誌にしばしば引用されている。
 「若耶群談」と内容的には似通った地誌に寛文年間に成立したと推定されている「若狭国伝記」がある。その内容は若狭の郡境・国高・名所・土産名物・国主略譜・沿革・社寺・山川・名所等からなり、若狭に関する江戸時代最初の地誌である。ただ、著者については、桜井(谷盈堂井)曲全子とされるものの、その履歴はよくわかっていない。
 若狭での本格的な地誌は、歌人でもあった小浜藩士牧田忠左衛門近俊が元禄六年頃に著した「若狭郡県志」である。成立の事情は、この書の凡例からは判然としないが、官撰ではなく私撰であったようである。全一〇巻からなり、構成は、国郡・山川・古跡・神社・寺院・墳墓・貢進・古器・土産・人品・雑記である。記載内容は質量ともに豊かであり、後年の地誌に大きな影響を与えている。 写真188 「若狭県志」

写真188 「若狭県志」

 小浜藩の官撰による最初の地誌は「若狭国志」である。本書は、延享二年(一七四五)藩主忠用より編纂を命じられた儒者稲庭正義が、領内を巡回し、村々の役人からの聞き取りをするなどして、四年後の寛延二年(一七四九)に完成させたものである。構成は、建置沿革・国域・形勝・風俗・治藩・関防・祥異・田賦貢租(巻一)、遠敷・大飯・三方各郡の郷名・村名・山川・置駅・橋梁・土産・神廟・墳墓・仏寺・古墳・人物・文苑(巻二から巻四)、国造・国守・守護・国主(巻五)となっているが、内容的には「若狭郡県志」と重複する部分が多い。後年、国学者伴信友が本書に膨大かつ詳細な注を施している。
 「雲の浜聞見録」は、地誌というよりは見聞記であるが、江戸において召し抱えられた藤林誠政が享和元年(一八〇一)から翌年にかけて藩主忠貫に従って小浜を訪れた折に見聞したものを書き留めたものであり、歴史的な事項というよりは、気候・鉱石・動植物・器物・風俗といった博物学ないし風俗誌としての内容をもったもので、随所に魚や器物の挿絵がみられ、若狭の地誌のなかでは特異なものである。
 このほか、若狭の地誌としては、小浜の町人学者木崎外字窓の著した『拾椎雑話』と、同じく町人学者である板屋一助が編纂した『稚狭考』があるが、『通史編4』で改めて外字窓・一助を取り上げるのでそこで詳述することにする。



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