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 第五章 宗教と文化
   第三節 学問と文芸
    三 史書・地誌の編纂
      越前の地誌
 貞享二年(一六八五)、幕府から越前国絵図の製作を命ぜられた福井藩は、藩領内をくまなく調査し、その結果を記録した「越前地理指南」「越前地理梗概」「越前地理便覧」の三書を編集して、絵図作成の基本資料とした。このうち「越前地理指南」は郡別・領主別に村々に所在する城館・寺社・山川から池・森に至るまでを詳細に記録したもので、それぞれに簡略な説明が付されている。「越前地理梗概」は、「越前地理指南」をもとに絵図に記載すべき事項の概略と、絵図書載上の様式を記したものであり、「越前地理便覧」では、その絵図記載事項が寺社・館跡・名所・山・川など四〇余りの項目別に整理編集されている。藩の行政組織を利用し、郡奉行・大庄屋を通じて調査と報告がなされたものであろうが、江戸時代前期の越前の地誌として画期的な価値を有している。後に述べる『越前国名蹟考』が、この三書を「越前国絵図記」と総称して活用しているように、その後の地誌編纂の基本資料となった点でも重要である。
写真185 「越前地理便覧」

写真185 「越前地理便覧」

 記載が城跡や館跡に限られてはいるが、「越前国城跡考」も福井藩編集の地誌として貴重である。享保五年八代吉邦の命によって、公領・他藩領を含む越前全域を調査し、城跡一五二か所、館跡六四か所、屋敷跡一〇五か所など合計三三〇か所を書き上げたもので、「越前国古城跡并館屋敷蹟」「越前国古城館屋敷改帳」など多くの別称がある。編者は不明で、記載の城館数が少ない略本も伝えられている。
 丸岡藩では、藩士鷹屋純芳が七年の歳月をかけて資料を収集し、越前国内を踏査して地誌の稿本をまとめた。史書の編纂にも熱心であった五代有馬誉純は、文化元年藩の儒官関赤城を総裁とし、宮本嶺南・青木松秀・有馬純信など藩内の儒学者を総動員して、この稿本の校訂を命じた。その年のうちに加削訂正を終え、完成したのが「古今類聚越前国誌」である。新旧の文献から越前に関する記事を抜粋し、これを形勝・郡界・山川・城邑・駅路など二三項に類別して編成しており、越前研究上の史料集としても重要な価値を有している。
 藩の組織のもと、公的に編纂されたもの以外にも、越前では多くの地誌が編集されている。そのうち、最も早く成立したのは「越前鹿子」で編者は不明であるが、寛文から延宝年間(一六七三〜八一)にまとめられたものと推定されている。越前の古社・名所・河川・街道などについて略記してあり、多種の写本が伝来している。
 続いて福井藩の右筆などを勤めた松波伝蔵正有の手で、越前国内の名所・城跡・古社寺や山川などについて記録した「帰鴈記」が執筆されている。諸写本の奥書によると、正徳二年(一七一二)に一応の稿本が完成していたのを、史跡調査に関心の高かった八代の吉邦の命によって補訂し、享保年間に至って藩へ提出したもののようである。
 大野郡志比原村  の医師竹内寿庵(芳契)は、越前の名所・旧跡を郡別に編集した「越前国名勝志」を著している。寿庵は、元丸岡藩主本多氏の家臣で、元禄八年(一六九五)本多氏の除封とともに志比原に隠棲した人物と伝えられ、本書の内容も坂井・大野両郡の記述に豊富な内容が見られる。大野藩士平泉養徳の筆になる元文三年の序文が付されているから、その頃の執筆であろう。
 同じ頃、郡奉行や目付を歴任した福井藩士村田氏春の著書に「越藩拾遺録」がある。優れた越前の地誌がないことを嘆いて編纂に着手したもので、上巻に越前の沿革・歴史、中巻に古社寺の縁起、下巻に名所・旧跡などが収録されている。寛保三年(一七四三)付で、藩の儒官伊藤龍洲の序文があるから、その頃一応の完成をみたことが知られるが、さらに天明二年付の氏春自身の跋文もあって四〇年近くにわたり改訂が加えられたことを物語っている。
 また、明和年中(一七六四〜七二)の成立と推定される越前の地誌に「南越温故集」がある。府中(武生)総社の神官が著したものと思われ、越前の古社寺縁起、名所旧跡・山川から古名家の由緒などのことが記録されている。収録された社寺・旧家の縁起や古記録・古文書類には、現在原本が失われたものが多く貴重である。本書を要約し、章をたてて体裁を整えたと思われるものに「南越温故録」がある。
 このほか今立郡大屋村の坂野二蔵(友浪と号す)が、越前の郷名・古社寺・山川などについて、郡別にまとめて考証を加え、寛政十二年(一八〇〇)に「越前地名考」を、翌年には「越前古名考」をまとめるなど、江戸時代後期までに多様な地誌が相次いで登場した。そして、それらを集大成するかたちで著されたのが、井上翼章の『越前国名蹟考』である。
 『越藩史略』の著者でもある福井藩の右筆井上翼章は、上述の地誌類をはじめ、三三種にのぼる越前の旧記を収集し、文化十二年秋『越前国名蹟考』を完成した。一三巻からなり、首巻には越前全般に関する各種史料の抜粋、郡別・藩別の石高などを記し、他の一二巻には郡別村ごとに石高・社寺・名所旧跡・物産などのことを、大小七三図を載せながら記述してある。出典を明記しながら旧記を引証することを中心としているが、自己の見解も随所に付記してある。
写真186 『越前国名蹟考』

写真186 『越前国名蹟考』

 本書に引用の文献は、越前の地誌類ばかりでなく、古典や古歌集などきわめて多岐にわたり、翼章の広範な学識を示している。完成の翌年文化十三年には、一本を清書して藩へ献上したが、その自筆献上本は松平文庫に保存されている。近世期に編纂された越前の地誌としては、最も優れたものといえ、『福井県郷土叢書』第五集および『新訂越前国名蹟考』として刊行されている。
 以上のほか、近世には各地域ごとの地誌も著されている。湊町として繁栄した三国湊では、慶応元年に問丸津田吉右衛門が、福井藩郡奉行松原孫七郎の命で、「三国鑑」を記録している。三国湊の石高・家数・人口・町名・地子・米蔵・会所・番所・島嶼・橋梁・渡場・舟数・町役人・諸職人・商家・社寺などのことを、簡潔に記したものであるが、幕末期の三国湊の状況をよく伝えるものとして重要である。



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