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 第五章 宗教と文化
   第三節 学問と文芸
    三 史書・地誌の編纂
      福井藩の史書編纂
 今日に伝わる越前の史書を考えるうえで、まず取り上げるべきものに、福井藩が公的に編纂した藩史類がある。福井市立郷土歴史博物館寄託の「越葵文庫」や、福井県立図書館委託の「松平文庫」に蔵する「越前世譜」および「家譜」がそれで、いずれも福井藩主の事績を中心とした越前松平家の家譜といった趣が強いが、編年体の福井藩史として最も公式で根本的な史書といえる。 写真184 「越前世譜」

写真184 「越前世譜」

 五代将軍徳川綱吉は、諸国の大名にそれぞれの家史を提出するよう命じたことがあって、福井藩でも六代綱昌が、儒官野路汝謙に命じて藩の旧記を整理採録させ、幕府に呈上した。その後、八代吉邦も家史の編纂を希望し、京都の儒学者で福井藩に仕えていた伊藤龍洲(名は道基)に命じ、上記の野路汝謙の家史を改訂増補させた。これが享保三年(一七一八)に完成した一冊本「越前世譜」で、藩主ごとに巻をたて、初代秀康から七代吉品までが記録されている。
 十代宗矩も、家老本多道好・儒官伊藤錦里(龍洲の子、名は縉)等に家史編纂を命じた。錦里は父の編纂した一冊本「越前世譜」を大幅に増補し、宗矩没後の宝暦元年(一七五一)に六冊本「越前世譜」を完成し、これには宗矩の病没までが記録されている。二種の「越前世譜」は、こうして儒学者の手により全巻漢文で記述されたが、それは幕府が林羅山や林鵞峯に編纂させ、寛文十年(一六七〇)に成立した漢文の編年史『本朝通鑑』の方式に、ならったものであろう。
 その後福井藩では、大番士のなかから学識のある人物を選んで「世譜掛」に任命し、右筆部屋において藩の歴史を編纂させた。この世譜掛が、藩主ごとに巻をたて、その事績を仮名交じり文により編年体で記録したのが「家譜」である。初代秀康から最後の十七代茂昭まで二七二冊が現存する。
 幕末の世譜掛田川清介は、弘化三年(一八四六)藩命によって『国事叢記』を編纂している。藩士天方友益家に伝わった「覚書」と、皆川勝章家伝来の「御代規録」の二書を比較校合して一書にまとめたもので、福井藩主を中心とする藩の歴史を克明に記録するばかりでなく、城下一般の出来事も詳しく記録してある。
 福井藩における「越前世譜」や「家譜」に相当する藩史の編纂は、越前の他の諸藩でも進められた。例えば丸岡藩では、文教の振興に熱心であった五代有馬誉純が、和漢の学識深い青木松秀や鷹屋純芳に命じて、文化八年(一八一一)に「国乗遺聞」を、同十一年には「藤原有馬世譜」を完成させている。



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