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 第五章 宗教と文化
   第三節 学問と文芸
    二 越前と若狭の文人・学者
      敦賀の文人・学者
 打它家は、江戸初期の敦賀の豪商であり、福井藩松平氏、小浜藩京極・酒井氏より知行を得、敦賀代官の地位にあった。その初代宗貞の子公軌は、京都で大名貸しを営むかたわら、歌人である木下長嘯子(勝俊)を後援し、その歌集『挙白集』の刊行を助け、また『古今類句』の編纂を手掛けた。さらに能書家でもあり、藤原惺窩の『惺窩文集』一〇巻のために筆をふるっている(『敦賀市史』通史編上巻)。
 天和二年に成立した「遠目鏡」は、当時の敦賀町の様子を簡潔に記録したものであるが、そのなかに「芸者付」として文人・学者の名があげられている。儒学者として内田長栄、歌学者として角鹿(島)計富・打它貞能、詩作者として今浜村の清養、連歌師として川口善次、俳諧師として三田村正信・田中秋月、能書として野沢宗與などである。
 角鹿計富は気比社の神官である島計富のことであり、「気比俗談」の著者でもある。「敦賀志」は「博聞強記にして書を能くす、萩原兼従卿に隨いて国学を学び、中院通茂卿に隨いて国風(和歌)を習へり、元禄中北陸大侯の需めに応じて二十一代集を書写す、其の他歌書の写本・伝聞等凡そ五百巻余」と計富を紹介している。打它貞能は、宗貞のあとを継いだ打它伊兵衛の子伊右衛門のことである。また田中秋月は、豪商田中氏の当主かその一族であろう。「遠目鏡」の末尾に載せられた「敦賀八景」の漢詩は伊藤自堅が、和歌は打它貞能が詠んでいる。
 島計富以外にも気比社の社家からはいく人かの学者が出ている。そのなかに平松周家と石塚資元がいる。平松周家は、明和元年(一七六四)に『気比宮社記』九冊を著した。石塚資元は、若くして加茂季鷹に和歌を学び、香川景樹・足代弘訓・伴信友等多くの学者との交遊があり、その著書には『歌道の折枝』や「敦賀志」などがある。



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