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 第五章 宗教と文化
   第三節 学問と文芸
    二 越前と若狭の文人・学者
      松浦庄蔵と町の学者たち
 『拾椎雑話』は、江戸時代前期の城下小浜における学問の様子を以下のように伝えている。十七世紀の前半の小浜では学問をする町人はほとんどいなかったが、二代藩主忠直が町人に講書を聞かせるために藩の儒者の一人であった橋本才兵衛に命じ、妙玄寺で講書を行わせたところ多くの町人が出席した。これを契機に武士はもちろん町家でも「学文」が盛んとなり、さらに三代藩主忠隆の好学もあって「下々まても四書五経は素読致す」ようになり一七〇〇年前後には、町に宝井卜元・堀口玄棟・片岡三楽・伊東春琳・桑村丈之進・木戸源之丞などの好学の者が多くみられるようになった。
 こうした雰囲気のなかで町人のなかから将軍綱吉の儒者となった松浦庄蔵が現われた。庄蔵は、富沢町塗師屋市太夫の子として生まれ、五歳より片岡三楽を師として書を学び、幼くして藩主忠隆に見いだされ出仕するようになった。この時有棟と名乗った(『拾椎雑話』)。その後忠隆に従って江戸に出、幕府儒官林信篤の門で学び、元禄七年に将軍綱吉に二〇人扶持で儒者として召し抱えられた。同年末には御次番に移り、二〇〇俵を給され、同八年には一〇〇俵を加増された。同十一年に致仕するが享保八年に評定所の儒者となり、同十年職を辞し、同二十年六四歳の生涯を閉じた。なお、幕府での名乗りは屓(つづり)である(『寛政重修諸家譜』)。



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