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 第五章 宗教と文化
   第三節 学問と文芸
    二 越前と若狭の文人・学者
      その後の学者
 忠隆・忠囿・忠音の三代に仕えた儒者に松田三迪がいる。三迪は、元禄初年に禅僧や町の学者とともに「若狭八景」の題で歌を詠んでいるが(『拾椎雑話』)、詳しい事歴はわかっていない。同じ頃の人として、若狭での本格的な地誌である『若狭郡県志』を編み、また歌人としても知られていた牧田忠左衛門近俊がいる(同前)。牧田は、儒者ではなく元禄二年の分限帳によれば二五俵二人扶持の勘定人であった。
 稲庭正義は、元文二年(一七三七)、忠存の時に江戸屋敷において儒者として一〇人扶持で召しだされ、翌年一〇人扶持を、延享二年(一七四五)五人扶持を加増され、さらに宝暦二年(一七五二)五人扶持を加増され三〇人扶持となり、この年京都で病死した(「安永三年小浜藩家臣由緒書」)。延享二年に藩命を受けて『若狭国志』を編纂している。
 塩野伯篤は、忠用に仕え、小浜町奉行などを歴任したあと、安永二年(一七七三)に「諸作法吟味并日記記録等之筋掛り」となり(「安永三年小浜藩家臣由緒書」)、同年藩命を受けて藩内の孝子・節婦・良民・義僕など六〇余名の善行を集録した『若州良民伝』を編纂し、同九年に完成させた。なお本書は天明元年に京都の書肆風月荘左衛門によって開版された。
写真183 『若州良民伝』挿絵

写真183 『若州良民伝』挿絵



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